【世界史】メソポタミア文明
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メソポタミアとは、「川の間の土地」という意味を持ちます。ティグリス・ユーフラテス川流域で興りました。川の氾濫によって、養分に富んだ土が堆積し、小麦や大麦の栽培が行われていました。商業が栄え、様々な契約が交わされ、それを記録できる文字の需要が高まりました。
紀元前5000年には、農業のために川から水を引く灌漑が始まり、雨水に頼らず農作物を作れるようになっていました。
沢山の興亡を繰り返した地域なので、○○人で歴史を辿ります。
シュメール人(前2700年頃)
最初に都市国家を作ったシュメール人は、粘土板に茎や枝を押し付けて形を作る楔形文字を使用しました。メソポタミアの南都に都市国家であるウル、ウラク、ラガシュなどを建設しました。ジックラドとよばれる巨大な塔の周りに家を建て、神権政治を行いました。
シュメール人のはじめた楔形文字は、様々に興亡を繰り返し言語が異なっても、楔形文字で書き記しました。六十進法(60で桁が増える数え方で時計に使用されています。)や太陰暦(月の満ち欠けを基準として作られた暦)の使用、閏年の設置など天文、数学など現代でも使われている実用的な学問が発達しました。
楔形文字
楔形文字はアシの尖筆で粘土板に記しました。そして、漢字と同じように一つの文字に多数の意味と音がありました。また、粘土の上を転がして絵を記す円筒印章が用いられました。粘土板は、粘土を練って形を整え、柔らかいうちに文字を刻み、日光に当てて乾かしました。特に重要な文書は、釜で焼いて保存性を高めました。ドイツの言語学者・グローテフェントが1802年に古代ペルシア楔形文字を解読しました。
ウルク
紀元前4000年、ユーフラテス川の支流のほとりに築かれました。紀元前3000年頃には最盛期を迎え、シュメール最大の都市となりました。城壁をめぐらせた市内に40000人ほど暮らしていました。古いものの上に新しいものが築かれ、現在も未発掘のものが多くあります。天空神アンと豊穣と戦争を司る女神イナンナを祭った区域があります。イナンナ神殿からは、「ウルクの貴婦人(イラク国立博物館蔵)」というイナンナの像と思われる人間を写実的に表現した作品が発見されています。
ウルクに陰りが見え始めるとウルが台頭してきました。
ギルガメッシュ叙事伝
実在したと考えられるウルク王の英雄ギルガメシュを主人公とする古代オリエントの叙事詩です。親友エンキドゥの死をきっかけに、ギルガメシュが不死を求めて放浪するというストーリーです。旧約聖書の洪水物語に酷似した大洪水の話があり、人類の悪行に対し、神が怒って洪水を起こし、少数の正しい行いをした者が生き残り、その後、人類が栄えるという神話等が記されています。ギルガメッシュとライオンをかたどった古代メソポタミアの像が残されています。
ウル
1922年から1934年にイギリスの考古学者レオナード・ウーリーが発掘しました。シュメール人の王ウル=ナンムが建てた巨大なジッグラト(一部再建されている)や、王族の墳墓を発見しました。またこの発掘調査にはアガサ・クリスティーも参加していました。
紀元前3800年頃、ウルクの南、ユーフラテス川の今はなくなってしまった支流のほとりに築かれました。地中海、ペルシャ湾、インドからの金や銅、石材や木材などの交易品が届き賑わっていました。メソポタミアの地は岩山や森もない平原だったので、これらの品々はとても貴重なものでした。
紀元前2600年頃に生きていたとされる高貴な人物・プアビ女王の墓が発見されたのも1920年代でした。そのプアビ女王の墓からは、金箔が貼られたアシの茎と、2本の金属のパイプが発見されました。これは、世界最古のストローでビールを飲むためのものと推定されています。
紀元前24世紀なかごろ、都市国家ウンマの王ルガルザケシがシュメールの都市を統一しました。ペルシア湾から地中海の領土を支配しましたが、アッカド王サルゴン1世との戦いに敗れました。
アッカド人(前2300年頃)
シュメール人の都市国家を征服し、はじめてメソポタミアを統一してアッカド王国を建国したのはサルゴン1世でした。アッカド人によるシュメール支配は緩やかなものでした。
アッカド語に楔形文字をあてはめて使用しました。彼は「戦いの王」と呼ばれていました。サルゴン1世と思われる頭部像はイラク博物館にあります。
サルゴン1世の孫ナラム・シンの時代まで領地を拡大していったが、各地で勃発する反乱により、次第に衰えていき、グティ人の王朝により占領され、破壊されました。
グティ人
実態については、ほとんど何も分かっていません。シュメール王名表に「誰が王で、誰が王でなかったか」と記された時代に支配権を得たとされています。グティ人に支配されたシュメール人やアッカド人にとって、悪夢の時代でした。グティ人は「山の竜」として忌み嫌われ、蛮族を意味する言葉として長くメソポタミアに残りました。
ウル第3王朝
アッカド人が衰え始めると再びシュメール人の国家が隆盛しました。まずウルクの王・ウトゥ・ヘガルがグティ人を滅ぼし、シュメールの王として即位しました。
ウトゥ・ヘガルの娘と結婚したウルナンム王が即位すると、現存する最古の法典の一つウルナンム法典(イスタンブル考古学博物館蔵)を作りました。紀元前2004年頃、東方のエラム人により滅ぼされ、シュメール人は歴史の表舞台から姿を消しました。多くの国家が生まれては消える混乱期の中、頭角を現した国家がありました。
セム系アムル人
古バビロニアを興しハンムラビ王の時、最盛期を迎えます。有名な施策としてハンムラビ法典があり、「目には目を、歯には歯を」のように復讐法として知られています。また、刑罰は被害者の身分によって違うといった身分法という側面も兼ね備えていました。ハンムラビ法典はルーブル美術館で見ることが出来ます。
書記のお仕事
経済文書や歴史を粘土板に残す重要な仕事でした。当時、読み書きできる者が少なく、書記はエリートな職でした。書記になるための学校があり、裕福な家庭の男の子が通え、詩歌、神話、数学、地理、動物学、植物学などを学びました。授業は朝から午後まで行われ、弁当を持って通っていました。
ハンムラビ法典(ルーヴル美術館蔵)
ルーヴル美術館にあるハンムラビ法典の彫刻を見上げると、右に座るのは、牛の角を重ねた冠を被った太陽神シャマシュで、左がハンムラビ王です。太陽神シャマシュ(正義と裁判を司る)がハンムラビ王に杖と輪っかを渡しています。これは神様から正式にハンムラビ王が統治する権利を得たことを知らせるためのものでした。このようにして、人々に正統な王様であることを納得させたと考えられています。
ハンムラビ王の死後、ヒッタイトの侵入により滅びました。
ヒッタイト人(前17c半ば)
メソポタミアは、ミタンニ人、カッシート王国から攻め込まれ弱体化していたところへ、小アジアからヒッタイト人が侵入してきました。そして、古バビロニア王国を征服しました。ヒッタイト人は、鉄製の武器をを用い、馬に乗り、戦車をも使用しました。そしてエジプトとも戦い(カデシュの戦い)ました。
どこからやってきたか分からない海の民により滅亡しました。海の民によりエジプト・ヒッタイトの勢力が衰えるとセム語系民族が活動し出します。
アラム人
シリアに多くの都市国家を建設しました。陸側のダマスクスを中心に内陸の中継貿易で活躍しました。アラム語が国際商語として使われました。
フェニキア人
地中海貿易で活躍し、シドン・ティルスが中心都市でした。地中海各地に植民市を建設し、カルタゴなどが有名です。もっとも重要なのは、アルファベットの起源であるフェニキア文字を使い、ギリシアに伝播していったことです。
ヘブライ人
遊牧の民でカナーン(パレスチナ)の地に定住していましたが、飢饉が原因で、紀元前1500年頃、預言者・アブラハムと共に、エジプト新王国に移住しました。
しかし、エジプト新王国の圧政に苦しみ、前13世紀に神託を受けた預言者・モーセが率いて、エジプトからカナーン(パレスチナ)へ脱出しました(出エジプト)。神に約束されたカナーン(パレスチナ)の地を見ることはできませんでした。
モーセの後継者であるヨシュアに率いられたヘブライ人はイスラエル王国を建国し、都はエルサレムに置きました。ダヴィデ王とソロモン王の時に最盛期を迎えました。しかし、ソロモン王の死後は南北に分裂しました。
北にはイスラエル王国、南にはユダ王国が建国されました。イスラエル王国はアッシリアに征服され、ユダ王国は新バビロニアに征服され、バビロンに連れ去られてしまいました(バビロン捕囚)
ユダヤ人は唯一神であるヤハウェの信仰をかたく守りました。この神によってユダヤ人だけが救われるという選民思想や救世主メシア(この世に現れて人々を救う指導者)の出現を待望するなどの信仰が生まれました。ユダヤ教の教典「旧約聖書」は、イエスの教えを伝える「新約聖書」とならんでキリスト教の教典になりました。