【世界史】エジプト文明
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人が住み始めたのは紀元前5000年頃でした。
古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスが言った「エジプトはナイルのたまもの」という言葉は、ナイルの増減水が、水と肥料を与えてくれ土地を豊かにしたからでした。
ナイル川周辺にノモスという行政・社会的な単位の都市国家が成立しました。それをファラオという現人神が統一しました。
下エジプト(メンフィスから下流の三角州まで)、上エジプト(メンフィスからアスワンまでの上流地帯)に分かれており、それぞれ象徴するものがありました。
・下エジプト:守護神はウアジェト、王冠は赤色、植物はパピルス、動物はコブラ
・上エジプト:守護神はネクベト、王冠は白色、植物は蓮の花、動物はハゲワシ
紀元前3000年ごろに第1王朝の創始者とされるナルメル王が上下エジプトを統一してから、紀元前332年にマケドニア王国のアレクサンドロス大王に征服されるまで続きました。
エジプト初期王国
紀元前3100年?頃~2890年?頃、古代エジプトで上エジプトと下エジプトを統一したとされる王朝です。この時期から文字の普及やパピルスの発明があった。しかし、第2王朝の記録資料が乏しく解明されていません。
ナルメル王
第1王朝の創始者とされるファラオです。上エジプトと下エジプトを統一、メンフィスに都を置きました。
デン(第1王朝第5代:〈在位〉前2977年頃~前2951年頃)
おそらく父親は第4代のジェトであるとされています。女王メルネイトの子であり、上下エジプトを統一する王として王権理念が確立されました。まだ幼かった王を補佐したのは、女王メルネイトでした。治世は約32年に及ぶといわれています。過去のどの王よりも領土を広げ、繁栄の時代を築きました。
メルネイト(女王)
幼い時に王位を継承した息子デンの補佐的な役割を担い、権力を握っていた女王。先代のジェト王が死んだ際、有力な家臣達を殉死させることで深い畏怖を植え付け、王の権力は絶対であるという事を知らしめ、まだ若く未熟な息子の王位継承を絶対的なものに仕立て上げました。
その後、王名表から名前が消されますが、アビドスにあるお墓はジェトとデンの近くに葬られ、同時代の王の墓と同じ規模で、女性の墓としては非常に珍しいものです。
古王国
紀元前2686年~2185年。都は下流のメンフィスに置かれ、エジプト第3王朝から第6王朝までの時代です。
エジプトを代表する建造物であるピラミッドの建造と太陽神殿の建設が行われました。史上初めてピラミッドはサッカラにあるジュゼル王の階段ピラミッドでした。有名なクフ王の時代に最盛期を迎え、ギザのピラミッドが建造されたのもこの時代です。
ジュゼル王(第3王朝第2代)
第3王朝の2代目のファラオでした。サッカラに最初の階段ピラミッドを建設しました。
クフ王(第4王朝第2代:〈在位〉前2589年~前2566年)
ギザに大ピラミッドを建設しました。アル・マムーンという盗賊が盗掘のために開けた穴があります。頂上部分が崩れたため、本来の高さを表すものが頂上にあります。1889年にエッフェル塔が作られるまで世界で最も高い建築物でした。
長年、大ピラミッドを完成させるために多くの奴隷を使い圧政と苦痛の政治を行っていたと言われていました。しかし、採石場から見つかったピラミッド労働者の落書きを分析した結果「国王万歳!」「家に帰ってお腹いっぱいご飯を食べよう」といった明るい内容で、ピラミッド建設にやりがいを感じていたことが解明されています。
ギザにピラミッドを建てた理由として、太陽の沈むナイル川の西(死者の地下世界が始まるのは西と考えられていた)であったこと、地盤が固い岩だったこと、良質な石灰岩がとれる採石場が近かったことなどが挙げられます。
第5王朝では太陽神崇拝の全盛期がありましたが、末期に死者の神オシリスが注目され太陽神崇拝が弱まります。
第6王朝時に下ヌビアと武力衝突し、ファラオの権力が弱まります。それに追い打ちをかけるように飢饉が襲い、政治的失敗も重なり古王国は滅びました。
中王国
紀元前2040年~紀元前18世紀頃、第11王朝のメンチュヘテプ2世がヘラクレオポリス王朝を追放してエジプトを再統一し、都を上流のテーベに置きました。第13王朝(第12王朝までともいわれる)終了まで続きました。混乱期が続き、遊牧民・ヒクソスの侵入による混乱で、弱体化します。
セベクネフェル(女王:第12王朝8代ファラオ)
新たな妃を外から迎えると、その父親を重職に登用させろと言ってくる可能性があり、権力を一族で牛耳りたかったのです。そのため近親相姦を繰り返し、早世が相次ぎました。世継ぎとなる王家の男性がいないことにより、ファラオに即位した稀有な女王と考えられています。記録はほとんどなく、統治の実態はよく分かっていません。女王の死により、第13王朝が創始されました。
新王国
紀元前1570年~紀元前1070年頃。エジプト第18王朝のイアフメス1世がヒクソスを滅ぼしエジプトを再統一しました。都は上流のテーベに置かれました。
ハトシェプスト女王
ハトシェプストとは「最も高貴な淑女」という意味です。トトメス1世の長女でありトトメス2世の妃でした。
幼いトトメス3世が2歳だったため摂政として実権を握りました。共同王と言いながら、トトメス3世の存在は無視され、全ての実権を握り、エジプト史上初めて女性がファラオとなり、実質的な最高権力を握ることになりました。王の威厳を表すため男装をして付け髭を着用したといわれています。
治世中は、対外遠征が行われず大きな反乱のない平和な世で、国力を拡大しました。また数世紀も途絶えていたプント国(現在のエリトリア)との交易をしたりと貿易活動が活発に行われました。男の王に勝る活躍でした。女王が作ったハトシェプスト神殿は古代エジプト建築の傑作と呼ばれています。
しかし、その死後トトメス3世はハトシェプスト女王の彫像や建造物からは名前が抹消され、記録が抹殺されてしまいます。そして彼女の功績を自身の父や祖父の功績とされ、正式の王として記載されなくなりました。エジプト考古学博物館にミイラが安置されています。その理由は諸説あり、恨みからくるもの説、女のファラオが存在した前例を残す訳にも行かず、抹消した説とあります。
トトメス3世(第18王朝)
ハトシェプストが実権を握っていた間のトトメス3世の生活はほとんど記録に残っていません。パレスチナの都市を征服し、ミタンニ占領のため多くの戦闘を繰り広げました。メギトの戦い(エジプト軍VSカナン連合軍)は、ファラオと共に従軍した書記の記録が残る歴史上最古の戦いです。
アメンホテプ4世(アクエンアテン王)
アメンホテプ4世がテル=エル=アマルナに都を移しました。エジプトは神々を祭る多神教でしたが、アトン神のみの一神教を強制しました。
ネフェルティティの胸像(ルーブル美術館蔵)などのアマルナ美術が開花し、写実主義な彫刻・建築様式が誕生しました。
ツタンカーメン(第18王朝)
アトン崇拝を廃止し、首都をメンフィスに戻しました。イギリス貴族のカーナヴォン卿(ハイクレア城が邸宅だった)の支援により、イギリスの考古学者ハワード・カーターが1922年に王の墓を発見しました。19歳でこの世を去った少年の王のミイラが豪華な棺の中で眠っていました。
ツタンカーメンの墓は数回、盗掘された跡があるもののほとんど遺物はそのままでした。ファラオの名簿から削除されてしまっていたものの、ほぼ完ぺきな状態で発掘されたため、どのファラオよりも有名になりました。
死者の守護神
ツタンカーメン王の墓の入り口には死者の守護神が左右に立ち、ツタンカーメン王がかたどられていました。
アビヌス彫刻像
お墓の中にある宝物倉庫の入り口を守っていました。
ツタンカーメン王の玉座
太陽神アトンの祝福の下で、妻アンケセナーメンが香油を塗っています。
カノポス容器の厨子
カノポスとは、ミイラを作った時に取り出した肝臓、肺、胃、腸などを保管する容器のことです。エジプトの女神イシス、ネフティス、ネイト、セルケトの像がカノポス箱の四面をそれぞれ守っています。
ツタンカーメンの呪い
王家の谷でツタンカーメンの発掘関係者が次々に亡くなり、呪いが降りかかったとされる話があるが、実際に亡くなったのはカーナヴォン卿のみでした。死因は虫刺されにより皮膚が化膿して炎症を起こしていました。その傷を剃刀で傷つけてしまった事により菌が血液中に入り、肺炎を引き起こしたことでした。
江戸時代の日本人が訪問
1863年に幕府からフランスに派遣された幕臣池田筑後守長発と一行の侍達が、スフィンクスの前で撮った記念写真が残されています。
ラムセス2世(第19王朝)
妃はネフェルタリ。エジプト歴史上最大のファラオ。ミイラはエジプト考古学博物館で見られます。ラメセス2世はシリアに進出し、ヒッタイト(王:ムワタリ2世)と戦い、世界初の国際条約といわれる、平和条約を結びました。古代エジプト最大の王ともいわれ、60年を超えた治世はエジプトが最も繁栄した時代でした。
ルクソールの大神殿(アブシンベル宮殿)にはラムセス2世を模した巨大な像が立っています。その隣には、ラムセス2世とほぼ同じ大きさで建てられています。それは、エジプト王妃として大変珍しい例です。ネフェルタリの墓は、1904年にイタリア人考古学者スキャパレッリによって発見されました。
その後エジプトはアッシリアにより征服され、アッシュールバニパルがエジプトに侵入しました。アケメネス朝ペルシャがマケドニアのアレクサンドロス大王に征服され、アレクサンドロス大王死後は、プトレマイオス朝ペルシャに統治されました。
エジプト文化
太陽神ラーなどの多神教。霊魂不滅の思想からミイラの作成と、生き返る方法を記した「死者の書」を作成しました。神聖文字(ヒエログリフ)を使いました。19世紀にフランスの学者・シャンポリオンが、ロゼッタストーンを手掛かりに解読しました。その他、神官文字(ヒエラティック)や民用文字(デモティック)も使われていました。
また、Paperの語源でもあるパピルスはカミガヤツリという草の一種で作られた紙がありました。
さらに、天文学が発達しており、1日365日とする太陽暦(太陽の動きを基準にした暦)などの測地術が発達していました。そのため、ナイル川の氾濫の時期を予測して農業に役立てていました。
死者の書(ルーブル美術館蔵)
墓に埋葬された人が死後の世界で平安に暮らすための手引書です。ピラミッドや墓は蘇るまでの安置場所だった。それまでに体が失われないようにミイラを作って体を保存しました。冥界の神オシリスと、ミイラ作りに詳しいアヌビスが描かれています。
古代エジプトでは神は半分人間、半分動物の形をしていました。タカはホルス神、太陽神ラーの子供で、エジプトの王様ファラオを表しています。
体は人間で頭はジャッカルなのはアヌビスという神です。体をバラバラにされたオシリスのミイラ作りを手伝いました。オシリスは生き返ったが、一度死んでいるため、冥界の神様となりました。
ヒエログリフ(ルーブル美術館蔵)
古代エジプトで使用されていたエジプト文字の一つです。シャンポリオンがロゼッタ・ストーンを解読しました。
ロゼッタストーン(大英博物館)
1799年7月15日、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行った際、フランス軍兵士ピエール=フランソワ・ブシャール大尉によって発見されました。見つかったのが港湾都市のがロゼッタだったため、「ロゼッタ・ストーン」と言われています。フランスの学者・シャンポリオンが解読し、「古代エジプト学」の父と称されるようになりました。
エジプトの死生観
古代エジプトの人々は、人間の魂がカー、アク、バーの3つから構成されていると信じていました。
カーとは、死んだ後も肉体のそばに残っている精神のことです。
アクとは、人間の肉体、または死者の霊など多様な意味があります。
バーとは、人間の死後、肉体を離れて死者の世界に旅立つ魂を意味します。
生きている時はカー&アク&バーで存在しているが、死ぬとそれぞれ分離され、魂であるバーがあの世(来世)へ飛んで行きます。この時、アクという肉体までなくなってしまうと、まだこの世(現世)に残っているカーの居場所がなくなってしまいます。カーの留まるところが必要で作られたのがミイラです。
ミイラ
古代エジプトでは、魂は肉体がある限り存在すると考えられていました。ミイラの魂が自身の肉体を確認した後、安心してその世へ行けるように作られたと考えられています。古王国時代だけで1000万躯のミイラが作られたと推定されています。また、牛、猫、猿などの動物のミイラも作られたといいます。特に猫は、ペットとして飼い「ミウ」と呼ばれており、死ぬとミイラにして埋葬されました。遺跡から発見されたミイラは数十万体にも及ぶといいます。
スフィンクス
ネメスと呼ばれる頭巾をつけたファラオとライオンの体を持ち、神を守護するシンボルとされています。カフラー王のスフィンクスが有名で、カフラー王の顔をかたどったものだと言われています。正確な建設時期については議論されています。
ピラミッド
ピラミッドは王の墓であるという説が定説です。そのほかの説には、ファラオの統治を記念するための建物、天文台、神殿など主張されています。
王墓説
ファラオは人間ではなく神であり、ファラオが亡くなると太陽神「ラー」と一緒に永遠に生きると信じられていました。そのため、ファラオが天に昇りやすいようにお墓を階段状にしたのではないかと考えられます。ピラミッドの内部に部屋と棺を入れる石棺があったことや、ミイラの欠片が発見されていることが根拠となっています。
天文台説
ピラミッドの四壁は東西南北を正確に向いており、大回廊に設置された空気孔は建設当時の北極星の位置と一致しています。そして、ピラミッドの高さを10億倍すると地球から太陽までの距離とほぼ同じらしいです。古代の時代に、そんなに正確な精密度が可能であったことは謎に包まれています。
王権象徴説
王権を誇示するため、大規模工事を行う例は数多く存在します。エジプトは資源と労働力が豊富だったのに、やることがなかったため、人々に仕事を与えるための公共事業だったという主張があります。