エーゲ海の狭い土地にポツンと都市ができ、交易をし始めました。

エーゲ文明

ギリシャと小アジア半島に囲まれたエーゲ海を中心とするエーゲ文明が興りました。

クレタ文明(都:クノッソス)

古代ギリシアにおける最古の文明は前2000年頃にはじまり、クノッソスを中心に栄え、写実的で開放的な海洋文明でした。1900年に、イギリス人考古学者アーサー・エヴァンズが発掘したクノッソスの宮殿跡には、敵への警戒心がうすく、城壁はありませんでした。クノッソス宮殿は、ギリシャ神話に出て来るミノタウロスの迷宮ではないかといわれています。また、未解読の線文字Aが使用されていました。

ミケーネ文明(都:ミケーネ / ティリンス)

前16世紀頃からクレタやオリエントの影響をうけてミケーネ文明を築き始めました。ドイツ人考古学者ハインリヒ・シュリーマンが発掘した、防御的・好戦的・軍事的な城砦跡が見つかっています。クレタやトロイまで勢力を拡大しました。そして、トロイとの戦争を終えた頃には、国内の秩序は乱れ、国力も衰え、簡単に他国に征服されてしまうような状態になっていました。

イギリス人建築家マイケル・ヴェントリスによって線文字Bが解読されています。この解読により、専制権力を持った王が役人組織を使い農民から農産物などを貢納として徴収していたことが明らかになりました。

暗黒時代

前1200年頃、ドーリア人や海の民などの侵入により突然破壊され、滅亡しました。400年にわたる混乱を暗黒時代とよばれています。

落ち着きを取り戻すと方言の違いにより、イオリア人、アイオリス人、ドーリア人に分化されていました。

ポリスの成立

前8世紀になると、貴族の指導のもといくつかの集落が連合し城山ができました。これをアクロポリスといいます。人々はアクロポリスを中心に集住(シノイキスモス)し、集会や公共の広場であるアゴラを中心に生活を営みました。

アクロポリス内に人口が集中し、土地不足が起こると植民市を建設しました。これは商業交易を活発化させることになりました。交易のため地中海沿岸の、ビザンティン(現在のイスタンブル)、ネアポリス(現在のナポリ)、マッサリア(現在のマルセイユ)などに植民市が建設されました。

また、同じギリアシア人同士をヘレネスといい、異民族には野蛮人の語源となったバルバロイと区別しました。同じヘレネス同士は、いわゆるギリシャ神話のオリンポス12神に対する信仰や、アポロン神に神のお告げを聞く「デルフォイの神託」、ゼウス神にささげる「オリンピア競技」などの文化を共有し仲間意識を高めると共に、異民族を差別しました。

第1回オリンピア競技会

紀元前776年、ギリシア南部のオリンピアの丘で開かれました。最初の祭典の種目は競争とレスリングだけでした。最初は小さな祭りだったが、しだいに盛大になり競技も増えていきました。競争・跳躍・円盤投げ・やり投げ・レスリングの五種競技(ペンタスロン)でした。4年に1度、戦いをやめ、オリンピアの地に集まって体育競技を楽しむものでした。

スパルタとアテネ

スパルタ

ドーリア人のポリスです。少数のスパルタ市民が、ヘイロータイ(被征服民を隷属農民とした)と、ペリオイコイ(商工業に従事する異民族)を支配していました。そのため、反乱を防ぐため、屈強の戦士になり、逆らえない状況を作り出す必要がありました。

そこで生み出されたのがスパルタ教育です。市民として生まれながらひ弱で戦士に育てることは無理だと長老が判断した赤ちゃんは、タイゲストスの山から投げ捨てられました。6歳になると、家を出され寮に入れられますが、食事は与えられません。「食事は盗んでこい」と言われ、捕まればそれまで、上手くいけば食事にありつけるといった様でした。

20歳で一人前の兵士と見なされ、家に帰ることができるのは30歳を過ぎてからのことでした。男子だけでなく、女子もまた徹底的な訓練を重ねました。そして、国防に役立つ勇士を産ませるため、女性は早く結婚することを求められ、独身主義は法律違反でした。

こういった生活は、リュクゴスの制という厳しい軍国主義的規律に規定され、ギリシア最強の陸軍国をつくりあげました。市民間の平等の徹底が図られ、土地の平等な配分、市民の共同食事、格差を生むような海外との交易や貴金属貨幣の使用も禁じられました。

アテネ

イオニア人のポリスです。アクロポリスのパルテノン神殿で知られています。直接民主政が確立しました。

直接民主政ははじめ、騎兵として国防の主役を担っていた貴族だけが政治を独占していました。平民達が不満を持ち、「我々も政治に参加したい」と訴え出るも、武器や武具を身に付けられるようになったらどうぞと一蹴されてしまいます。

ところが、アテネの商工業の発展により裕福な平民が出現するようになりました。すると、武器を買えるようになり、平民による重装歩兵が国防の主力になりました。そして、参政権を要求して貴族と対立するようになりました。

ドラコン

前7世紀、ドラコンによって慣習法を成文化し、法による秩序の維持がはかられ、貴族による法の独占が防がれました。

ソロンの改革

名門貴族出身のソロンは、自作農たちを借金地獄から救済するための政策を立て、法制化しました。結果、農民達の借金は大幅に軽減され、借金の返済できなかった市民を奴隷として売るこを禁止しました。これは、人権尊重の例となりました。そして、国政参加の権利を、出身階級(血統)ではなく財産額によって市民の参政権を定めました。

ペイシストラトス

名門貴族出身でしたが、自らの権力の基盤を民主派と呼ばれた新興階級におきました。平民の支持により非合法に政権を奪取したペイシストラトスが僭主(血筋や身分ではなく、自らの実力で君主となる)政治を行い、暴君化ました。しかし、20年間の独裁時代アテネに平和と秩序を与え、繁栄をもたらしました。

ペイシストラトスの死後、息子のヒッピアスがアテネを恐怖で支配するようになりました。そして、スパルタ兵の力を借りた裕福な貴族のクレイステネスによって追放され、ペルシアへ逃れました。

クレイテネス

前6世紀末頃、クレイテネスは陶器の欠片に名前を刻んで投票する陶片追放(オストラシズム)実施し、僭主の出現を防止するなど民主政治の基礎を築きました。血縁によって支配されていた市民を住む場所によって分け、新たな10の部族を作りました。さらにそれぞれの部族から50人の代表を出す500人評議会が設けられました。

陶片追放(オストラシズム)

僭主になるおそれのある人物の名前を陶器の破片に書いて投票し、多数の票をとった者を10年間国外追放する制度です。

こうして、貴族以外の平民も参加し、独裁者が生まれることを許さない民主政が完成しました。

ペルシャ戦争とペロポネソス戦争

ペルシャ戦争(紀元前500~紀元前449年)

オリエントの専制国家・アケメネス朝ペルシャとギリシアのポリス世界の争いです。原因は、イオニア植民地(ギリシア人植民市)のミトレスのアリタゴラスがペルシから船団を借りてナクソス島に攻め入るも失敗しました。そこで今度は逆に、アケメネス朝ペルシャに対して反乱を起こしました。それをアテネが支援しました。

経過

ペルシア王・ダレイオス1世の派兵は暴風雨により失敗しました。続いてマラトンの戦いでアテネ市民の重装歩兵が活躍し、勝利しました。このとき、勝利を伝える伝令がマラトンからアテネまで約40kmを駆け抜け、これが後のマラソン競技になったという伝説はローマ時代に作られました。

クセルクセス1世(ダレイオス1世の子)は、20万の兵と1000隻の船で攻め込みました。ギリシア連合軍を作り迎え撃ちました。スパルタはレオニダス王がぶつかるもテルモピレーで敗戦、アテネはテミストクレス指導により海軍を拡充し、サラミスの海戦へ突入し、三段櫂船の活用などで再び大軍に勝利しました。

ついに、プラタイアの戦いではアテネ・スパルタの連合軍により勝利は決定的となり、オリエントの専制国家からポリス世界が守られました。

戦争後

ギリシアに勝利をもたらしたテミクレイトスでしたが、故郷のアテネからのねたみの対象となり、陶片追放により宿敵ペルシアへと流れていきました。

アテネは強大な海軍力を背景に、対ペルシア同盟であるデロス同盟の盟主になりました。軍艦の漕ぎ手として戦争に参加した無産市民の発言力が向上し、将軍・ペリクレスによりアテネの民主政の完成につながりました。しかし、戦争にアテネ・スパルタの覇権争いが勃発、戦争となります。

ペリクレス

直接民主政が完成したのは、ペルシア戦争後の前5世紀半ばのペリクレス時代でした。今まで報酬の出なかった裁判所の陪審員や役人兵士に報酬を出しました。18歳以上の成年男子市民全員が出席する民会で政治を運営できるようになりました。(子供、女性、奴隷は参加することはできません。)

一方で、政策に必要な費用は一部の富豪が強制的に支払わされたり、デロス同盟の資金を流用したり、脱退するポリスに賠償金を支払わせたりと横暴な政治を行いました。

そこで、アテネがコリントス植民市を奪おうとしたのをきっかけに、スパルタを盟主としたペロポネソス同盟と戦争が勃発します。それは同時にアテネ・スパルタの覇権争いも含まれていました。

ペロポネソス戦争(紀元前431~紀元前404年)

アテネ(デロス同盟)VSスパルタ(ペロポネソス同盟)の全ギリシャを2分した戦いです。結果はアテネの敗北し、スパルタが覇権を握ることになりました。しかし、スパルタは30人の僭主の後ろ盾となり、寡頭政(特定の少数の人間が権力を握り、市民を支配)を行い、他のポリスを圧迫し反感を買い、テーベが一時主導権を握りました。

ポリス間の絶え間ない戦争で、農業が荒廃し、貨幣経済の浸透により貧富の格差が増大し、土地を失い市民の身分から没落する者が増えました。市民軍ではなく傭兵が流行し、ポリス社会が変質していきました。

マケドニアの興隆

アテネ、スパルタ、テーベが覇権を争っているところに漁夫の利を得たのはフィリッポス2世が率いるマケドニアでした。全338年、カイロネイヤの戦いでアテネ・テーベ連合軍を破りました。全ギリシアのポリスをコリントス同盟に集め、支配しました。

フィリッポス2世の子・アレクサンドロス大王は、アケメネス朝ペルシャに対し東方遠征を行い、イッソスの戦いやアルベラの戦いなどで、ダレイオス3世率いるアケメネス朝ペルシャを滅ぼしました。

アレクダンドロス大王の帝国はインダス川まで達しました。東西融合政策を行い、文化が混ざり合いヘレニズム文化が生まれました。しかし、熱病に侵され急死すると、その領土は部下の将軍に争われました。

ギリシャ部分のアンティゴノス朝マケドニア、エジプト部分のプトレマイオス朝エジプトでは都であったアレクサンドリアが栄えました。そして、ペルシャ部分のセレウコス朝シリアの3つに分割されました。この時代をヘレニズム時代と言います。

  • 古代オリエントの統一
  • 古代ローマⅠ