【世界遺産】エルトリア墓地遺跡群

約2800年前の遺跡で、古代ローマが台頭する以前の先住民エルトリア人の1200ものお墓です。当時の死生観や宗教観が分かります。柱や梁に施された浮彫は、芸術品としての価値もあります。

ローマ建国の伝説

ギリシア神話を題材にした、ホメロス「イーリアス」ではトロイア戦争10年のある日の出来事が記されています。

ギリシアとトロイは10年間、攻防戦を繰り広げていました。ギリシアの攻撃が手詰まりとなり、ギリシア人が引き上げると巨大な木馬が残されていました。それを勝利に沸き立つトロイでは置き土産として城内へ運び入れました。夜、人々が寝静まったとき、ギリシア兵が木馬から出てきました。そして、その夜のうちにトロイは陥落しました。これは、ギリシアの武将オデュッセウスが考案した木馬で、巨大な木馬の中にはギリシア兵が潜んでいたのでした。

地獄絵図のなか脱出に成功したトロイの王の婿アイネイアス一行は、イタリアの西岸を北上し、ローマの近くの海岸に定住しました。アイネイアスの死後は息子のアスカニウスは後のローマの母体とされる都市アルバロンガを建国しました。

アスカニウス王には娘がいました。アスカニウスの死後、王位を狙った叔父によって処女でいることを強要されるも、軍神マルスと交わり、ロムルスとレムスという双子の王子を出産します。それが叔父の逆鱗に触れ、双子は籠に入れられてテヴィレ河に流されてしまいました。 ところが、籠が繁みに引っかかり鳴き声を聞きつけた母狼によって助けられました。この場面はカピトリーノ美術館の「カピトリヌスの雌狼」像で表現されています。

双子は成長し出生の秘密を知ると、王を殺しました。共通の敵がいなくなったロムレスとレムスは、どちらが王になるかで揉めました。その戦いに勝ったのはロムルスでした。

王政の時代

ロムルス(ラテン陣、統治:39年間)

ロムルスの名をとって「ローマ」が誕生しました

サビーニ族

ローマ建国時、男ばかりで女性がいませんでした。国を維持するためには、子孫を残すために未婚の女性が必要でした。そのため、勇敢なサビーニ族を襲い女性を強奪しました。こうして、無理矢理ローマ人の妻にさせて、国を維持発展させるための次世代を得ることに成功しました。

そんなことに黙ってはいられないのが、サビーニ族でした。そこで、女性を奪回するために戦争を起こします。ところが女性たちは子供と離れたくないと戦争の中止を訴えました。

ロムルスは、サビーニ族に共同で統治することを提案し、クィリナーレの丘が提供されました。そして、サビーニ族はローマ人同様の完全な市民権を与えられ、元老院の議席をも与えられました。

百人隊制度

ロムルスは、百人の兵士で一隊を組むケントゥリア制度を考え出しました。これは戦闘の際、ローマ軍団の最小単位で核となりました。

ヌマ・ポンピリウス(サビーニ族、統治:43年)

ローマの招聘には応じず、先祖代々の地にとどまったサビーニ族でした。ロムルスの死後、人格を評価され、何度も元老院に指名され、何度も断るが、最後には承諾し王となりました。

ヤヌス神殿(フォロ・ロマーノの原型)

出入口と扉を司る神であるヤヌスの像が祀られた。戦時の時には開けられ、平時に閉じられました。好戦的なローマ人に対して、信仰を通じて畏敬の念を抱かせることで平和を維持できるよう建立しました。

ヌマが統治している間は閉じられたままでした。ヌマの死後、から第1次ポエニ戦争が終結するまで開いていました。8年間閉じられたあと、イタリア北部のガリア人と戦うため、再び開門しました。

ユリウス・カエサル死後の内乱でオクタヴィアヌスがアントニウスとクレオパトラの連合軍に勝った前29年に、ようやく閉じられました。

ローマの市民を職能別に分ける

多民族国家であったローマで、部族間の対立を防ぐ必要がありました。農民たちを「パギ」と呼ばれる小さな集団に分けました。そして商業や手工業に携わる人々は職能別に分け、共同体を重要なものとしました。

暦の改革

1年を12か月にし、1日355日と定めました。そして、年間の祭日と休日の整備をし、休日は全ての公務はお休みになりました。

トゥリウス・オスティリウス(ラテン人、統治:32年)

ヌマとは違って、攻撃型の王でした。

アルバと開戦

ラテン人の発祥の地であるアルバに開戦をしかけました。強大なエルトリアを背後に戦い合うのは得策ではないと6人の若者(ホラティウス家の3人 VS クリアティウス家の3人)が決闘をすることになりました。

結果は、トゥリス率いるホラティウス家の勝利でした。決闘に勝った国が、負けた国を平和に納めると決めたのに、裏切ったアルバの王様は、ローマ人最初の極刑を下されることになりました。

アルバの都市は破壊されますが、住人達はローマ市民となり、ローマ人と同等の市民権を与えられ、チェリオの丘に移住を強制されました。

この時クリンティウス、セルヴィウス、ユリウス等、アルバの有力家門の人々は貴族となり、その代表者は元老院の議席が提供されました。ユリウス家は後のユリウス・カエサルを輩出しました。

アンコス・マルティウス(サビーニ族、統治:25年)

ヌマの娘を母(つまり、ヌマの孫)として、ローマで生まれ育ちました。

テヴィレ川に木造の橋をかける

オスティアを征服

周辺の砂浜で塩が生産されていたため、塩田事業を手中にしました。当時、塩は貴重なもので、通貨の代わりとなる塩を手に入れた利点は大きいものでした。塩の道「ヴィア・サラーリア」という内陸部の各都市に運ぶための街道ができました。

タルクィニウス・プリスコ(エルトリア人、統治:37年)

異邦人一家の当主が、ローマで初めて選挙運動をして王に立候補しました。

元老院の議員数を200人に倍増

人口が増えたことに加え、新参者が権力を握るには、自身の息のかかた者たちを近くに置き、権力を確立する必要がありました。

戦利品を持ち帰り、凱旋

今までの王と違うことは、敗者を移住させ、市民権を与えて同化する政策をとりませんでした。戦利品を満載した車を連ねて、ローマに凱旋しました。王の個人的な人気獲得のためだったのではないかと、いわれています。

大地下水道の建設の着工

巨大な排水溝の名残りが、テヴィレ川沿いに見られます。ローマの心臓と言われるフォロ・ロマーノが誕生しました。

王が生前に拾っていた少年・セルヴィウスを推薦されることを恐れた、先代王のアンコスの息子二人に暗殺されてしまいました。そんな状況の先手を打ち、市民集会の選出を経ずに元老院での決議だけでセルヴィウスが王に即位しました。

セルヴィウス・トゥリウス(エルトリア人、統治:44年)

もとは奴隷の出自であったといわれています。

軍政改革

軍政を改革することは、税制を改革することであり、選挙制度を改革することでした(税を軍役を務める事で支払ってこそ、一人前の市民と認められているから)。ローマで初めて人口調査を行い、経済力をもとにして6階級に分けられました。

選挙制度のギリシアとの違い

ギリシアのアテネでは一人一票でした。ローマは軍団の最小単位である百人隊ごとに1票もつ制度でした。セルヴィウスの軍政改革により第一階級だけで過半数を制してしまうようになりました。

戦法の確立

前衛(真っ先に敵とぶつかり、戦線を乱す役割)、本衛(重装歩兵)、後衛(いざというときの助け)の3分にしました。

先王の実の息子(タルクィニウス・スペルブス)と自身の実の娘・トゥーリア夫婦に殺されました。

タルクィニウス・スペルブス(統治:25年)

先王セルヴィウスの葬儀を禁じ、先王派と見られていた元元老院達を殺しました。市民集会の選出も元老院での承認もなく王に就きました。

王の息子・セクトゥスが親族のコラティヌスの妻・ルクレツィアを犯しました。ルクレツィアは自害し、フォロ・ロマーノの演説台に安置されました。そして、鬱憤の溜まっていた人々が爆発します。

ブルータスが市民たちを前に演説し、「王と王の一家全員をローマから追放する」ことを市民たちに提案しました。

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