れこちょ

韓国ドラマで時代劇を見る前に、時代の流れを把握したい!と思い、本やネットで調べた事をまとめました。朝鮮半島の三国時代(高句麗)の歴史です。

韓国の三国時代(高句麗)の遺跡

峨嵯(アチャ)山

百済の蓋鹵王が処刑され、高句麗の温達将軍が最期を遂げた地といわれています。

address:韓国 ソウル

忠州高句麗碑展示館

韓国の国宝「忠州高句麗碑(長屋王時代に新羅が従属していた記録)」が展示されています。高句麗鍛冶屋村を再現されています。

address:2319 Gamno-ro, Jungangtap-myeon, Chungju-si, Chungcheongbuk-do, 韓国

板橋博物館

高句麗軍人の墓と思われる古墳石室が保存・展示されています。

address:191 Pangyo-ro, Bundang-gu, Seongnam-si, Gyeonggi-do, 韓国

歴代王でたどる高句麗の歴史

韓国史上、最も広い領土を持った国でした。現在の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国北部から満洲の南部にかけての地域に存在しました。勇壮で質実な文化が育まれました。法隆寺金堂の壁画を書いたと言われる曇徴や玄琴を作った王山岳などが有名です。

【初代】東明聖王(紀元前37年~紀元前19年)

史書に登場するものの、その生涯に関する確実な史料はほとんどありません。扶余の7人の王子と対立し卒本に亡命して、紀元前37年に高句麗を建国した以外、どんな人物であったか分かっていません。

【2代目】瑠璃明王(紀元前19年~紀元18年)

亡命中の朱蒙の所へ剣の欠片を持った少年が現れました。朱蒙が亡命する前に夫人に言伝を託していました。それは、七角形の柱の下の欠片を探し当てたものが我が子である証明だという事でした。そうして、瑠璃王が、王位を継ぎました。

紀元前9年、高句麗を悩ませていた鮮卑族を攻撃し、降伏させました。

朝鮮最古の歌である「黄鳥歌」を作りました。側室同士が喧嘩し実家に帰ってしまった姫は戻らず、嘆き悲しんだ時に瑠璃王が読みました。

【3代目】大武神王(18年~44年)

瑠璃明王の3番目の男子でした。紀元13年に東扶余から攻められた時、わずか9歳で撃退しました。

22年、侵攻してきた東扶余の帯素王を討ち取りました。
32年、楽浪郡へ侵攻し降伏させ、37年に楽浪郡を滅ぼしました。
44年、後漢の光武帝が海路出兵して楽浪郡を回復させました。

【4代目】閔中王(44年~48年)

【5代目】慕本王(48年~53年)

大武神王の死去の際には幼少であったため、王の弟の閔中王が即位しました。閔中王の死去にあたり、王位を継ぎました。民に施すこともあったが、暴虐の王でした。いつか王に殺されると恐れた側近によって殺害されました。

【6代目】太祖大王(53年~146年)

7歳で即位したため、母の扶余太后が摂政しました。治世が長すぎるので、数代欠落しているという説があります。

【7代目】次大王(146年~165年)

取り巻きを高位に就かせ、反対派を退けると暴政を開始しました。そのため、臣下によって殺害されました。

【8代目】新大王(165年~179年)

後漢が侵攻し敗戦すると、自ら降伏しました。その後に再び後漢に侵攻された時には持久戦に持ち込み、撤退させました。

【9代目】故国川王(179年~197年)

非常に優れた王でした。政治に口出しする外戚を押さえ、国で埋もれた人材を探しました。宰相に平民出身の乙巴素を迎え、貴族勢力を抑制し、王権の強化を実施しました。

凶作の年の春に農民達に穀物を貸し、秋の収穫で返させる賑貸法を制定しました。これは、高句麗で初めて出された農民を救済する制度でした。

死去後、後継者争いが勃発し発岐(遼東郡の公孫氏を頼るが負けると自害した)と延優が争いました。

【10代目】山上王(延優)(197年~227年)

後継者争いに勝った延優が即位しました。

【11代目】東川王(227年~248年)

魏・呉の対立と遼東郡の公孫氏の動向が外交に影響を与えました。魏への忠誠を示していましたが、公孫氏を滅ぼした魏の侵攻を受け、都を捨て南沃沮に逃れました。

紐由(高句麗の将軍)

投降を偽り、魏の将軍を刺殺した後に自決しました。これにより魏軍が退却し、東川王は国都に戻る事ができました。

以降、高句麗の再興に努めることになりました。

【12代目】中川王(248年~270年)

魏が再び攻めて来ました。あっという間に敵将の首をとり、都を守りました。

【13代目】西川王(270年~292年)

280年10月、粛慎族(満州に住んでいた狩猟民族)が攻めてきました。王の弟・達賈が討伐しました。
286年2月、王の弟、逸友・素勃らが謀反を企てたが、力士を用いて捕らえました。

【14代目】烽上王(292年~300年)

猜疑心が強く、一族を処刑しました(先代王の下で功績を残した弟・達賈も殺されました)。天災が続いて国民が餓え苦しんでいるのも構わずに、宮殿の増築・修復のための国民を使役しました。烽上王を廃したい臣下が、美川王を王位につけると、自害しました。

【15代目】美川王(在位:300年~331年)

烽上王から身を守るため、塩商人として逃げ延びていました。臣下が見つけ出し、300年に王に即位しました。

313年に楽浪郡、314年に帯方郡を滅ぼし、朝鮮半島北部を支配しました。更に遼東半島へ出兵し、鮮卑族の慕容氏(337年前燕を建国)と戦闘をしています。高句麗を大いに飛躍させ、331年に死去しました。

【16代目】故国原王(在位:331年~371年)

337年、中国・五胡十六国時代の中から慕容氏が前燕を建国しました。
342年、前燕の慕容皝が侵攻し、美川王の王陵があばかれて屍を持ち去られ、大敗しました。
369年、2万の軍隊を率いて百済に攻め敗北しました。
371年、百済の近肖古王が高句麗に攻め込み、戦死しました。

【17代目】小獣林王(371年~384年)

前燕に記録的大敗を喫し、百済と戦い王を討ち取られ、軍事力の低下が著しく、ひたすら国力の回復、内政の安定化、文化振興に努めました。

中国との友好関係を保ち文化を受け入れ、372年、教育機関として太学が創設されました。儒教による教育が推進されました。また、僧侶の順道を受け入れ、仏教を国家的に公認しました。律令を制定して国家体制を整備しました。

【18代目】故国壌王(384年~391年)

相変わらず百済とは中が悪く、攻められ劣勢に陥りました。仏教信仰の拡大を進めました。

【19代目】広開土王(在位374~412)

17歳で即位した最盛期の王です。南の百済を攻略し、領土を南側に大きく広げました。また、新羅が倭の侵攻に苦しみ高句麗に救援を求めてきたため、新羅に派兵して倭の勢力を撃退させたりもしました。

内政では長史・司馬・参軍など中央官職を新設し、歴代王陵保護のために守墓人制度を制定しました。また、先代の王にならい仏教を奨励しました。

【20代目】長寿王(413年~491年)

父の業績を記した碑文(好太王碑)を建造しました。中国とは冊封体制で高い評価を得て、高句麗の全盛期を作りあげました。

472年、平壌に遷都しました。
475年、百済の蓋鹵王を殺害して勝利しました。

【21代目】文咨明王(492年~519年)

中国(南北朝時代の南北両方)とは冊封体制を続けました。百済・新羅が同盟(羅済同盟)して対抗してきました。新羅と百済が救援を送り合うなどして高句麗を攻めてきました。国内政策では仏教の拡大をしました。

【22代目】安臧王(519年~531年)

中国(南北朝時代の南北両方)とは冊封体制を続けました。523年、百済に攻め入り首級2千余りをあげました。

朝貢と冊封

朝鮮半島の国家は中国の脅威に常にさらされていました。そこで、毎年、中国王朝に使者を派遣して貢物を送りました。これを「朝貢」といいます。その返礼に自国の産物を与え、朝貢した勢力の君主に王などの称号を与え、その地域の支配を認めました。これを「冊封」といいます。このような朝鮮半島諸勢力と中国王朝の関係は19世紀末まで続きました。

【23代目】安原王(531年~545年)

長寿王から伝統になっている中国(南北朝時代の南北両方)に朝貢を続けました。540年9月、百済が攻め入ってきた時には精兵5千を派遣して撃退させました。

【24代目】陽原王(545年~559年)

【25代目】平原王(559年~590年)

治世中の581年、隋が興りました。

温達(オンダル)将軍

貧しい家の出身でした。平原王のピョンガン姫と結婚して王の婿となりました。戦功をあげ嬰陽王の時代にも活躍しました。様々な伝説がありますが、実在した人物です。

【26代目】嬰陽王(590年~618年)

靺鞨族の高句麗に従わない勢力が隋の領内に逃げ込み、高句麗が攻撃を開始しました。

598年、隋の初代皇帝文帝が大軍を送り込みました。隋に謝罪し、事態は収束しました。

隋と仲の悪い東突厥と高句麗が同盟を結ぼうとしました。

612年、中国は隋の煬帝の時代でした。歴史上一番大規模な400万を超える隋の軍隊が、水陸両方から攻めてきました。4回目に高句麗征服に来た時、反乱軍によって煬帝は捕まり殺され、隋は滅亡しました。

隋との度重なる戦いで国土は荒れ、高句麗の国庫は尽きてしまいました。

乙支文徳

敵陣(隋)の兵が飢えて疲れているのを目にした乙支文徳(高句麗の将軍)は、川の水を堰き止め、隋の軍隊が渡ったところで水を流し、大勝利を納めました(薩水)。そのため、朝鮮最大の民族英雄の一人として現在も讃えられています。

【27代目】栄留王(618年~642年)

631年、国防を強固にするため、淵蓋蘇文が総監督となり千里の長城(現:北朝鮮)を建設しました。
642年、栄留王は、淵蓋蘇文によって殺されました。

【28代目】宝蔵王(642年~668年)

淵蓋蘇文が擁立したため、王としての実験を持つことはできませんでした。淵蓋蘇文は百済と手を結んで、新羅への攻撃を開始しました。善徳女王が唐に助けを求めると、唐の太宗は玄奨を高句麗に遣わしました。しかし、高句麗は逆らいました。唐が再度、使者を送ると、使者を捕らえてしまいました。これに唐の太宗は激怒し、兵を派遣し交戦し、撃退しました(第1次侵攻)。

唐の3代皇帝・高宗の代となり戦略を持久戦に転換すると、国力の消耗が激しくなり、離反や内紛が相次ぎました。

660年、百済が唐に滅ぼされる。
666年、淵蓋蘇文の死後、後継者争いが勃発。
668年、唐による第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、高句麗は滅亡しました。

参考&引用図書

マンガものがたり韓国史1~檀君神話から統一新羅まで~(国書刊行会)

一冊でわかる韓国史(河出書房新社)

高句麗王の一覧(wikipedia)

  • 韓国の歴史(古代朝鮮)
  • 韓国の歴史(三国時代:百済)