れこちょ

韓国ドラマで時代劇を見る前に、時代の流れを把握したい!と思い、本やネットで調べた事をまとめました。朝鮮半島の三国時代(百済)の歴史です。

韓国の三国時代(百済)の遺跡

益山王宮里五層石塔(王宮里遺跡)

韓国の国宝であり、世界遺産です。

address:산80-1 Wanggung-ri, Wanggung-myeon, Iksan-si, Jeonbuk State, 韓国

弥勒寺址

世界遺産です。639年創建で、武王の時代に建てられた百済最大の護国寺院です。

address:97 Giyang-ri, Geumma-myeon, Iksan-si, Jeonbuk State, 韓国

上党山城

世界遺産です。周囲長約4.2kmの城壁に囲まれた山城です。車、路線バスの他、90分かけて登頂するコースもあります。

address:韓国 Chungcheongbuk-do, Cheongju-si, Sangdang-gu, Sanseong-dong, 산28-2

定林寺址五層石塔

世界遺産です。百済の仏教文化がもっとも花開いた時代に建設されました。寺院は残っていないが、百済王室のもっとも重要な大寺院だったとされています。

address:254 Dongnam-ri, Buyeo-eup, Buyeo-gun, Chungcheongnam-do, 韓国

扶蘇山城

世界遺産です。全盛期から滅亡までをともにした、象徴的な砦でした。山には遊歩道が整備されています。

address:31 Buso-ro, Buyeo-eup, Buyeo-gun, Chungcheongnam-do, 韓国

公州 公山城

世界遺産です。文周王が475年に現在のソウルから首都を移し、64年の間、都を守る役割を果たしました。

address:280 Ungjin-ro, Ungjin-dong, Gongju-si, Chungcheongnam-do, 韓国

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歴代王でたどる百済の歴史

高句麗2代王・瑠璃王子の異母兄弟である温祚が建国しました。百済の文化は海をこえて日本にわたり、日本文化の下地を作りました。五経博士をはじめ、医学博士・天文学博士をおき、儒学・医学・天文学などを研究していました。

【初代】温祚王(紀元前18年~紀元28年)

朝鮮半島南西部にあった馬韓諸国を統合し、百済の基礎を固めました。靺鞨に7回攻められたが、いずれも撃退しました。

【2代目】多婁王(28年~77年)

先王から引き続き、靺鞨との戦いが続きました。蛙山城が新羅との係争地となり奪回を繰り返しました。33年に初めて畑を作らせたと記されています。

【3代目】己婁王(77年~128年)

治世当初は、新羅とやりあっていたが、靺鞨への対抗措置として新羅と和睦しました。

105年、新羅に使者を派遣して和睦を求めました。
113年、贈り物を持って新羅を訪ねました。
125年、靺鞨が新羅を侵攻したため、救援依頼に答えて5人の将軍を派遣しました。

【4代目】蓋婁王(128年~166年)

165年、新羅の阿飡(新羅の官位名)の吉宣が謀反を企て百済へ逃亡しました。吉宣を匿い引き渡しを拒否し、新羅との関係は悪化し、再び敵対関係になりました。

【5代目】肖古王(166年~214年)

新羅、靺鞨との交戦が続きました。

【6代目】仇首王(214年~234年)

【7代目】沙伴王(234年)

【8代目】古尓王(234年~286年)

仇首王の長子・沙伴王(7代目)がいったん跡を継いだが幼かったため、王位を継ぎました。 佐平(第1等官位、最上級官庁の長官名)と15等から成る官制を整備しました。さらに、収賄者や盗人を取り締まるために、得たものの3倍の徴収と終身禁固刑とする罰を布告しました。百済を古代国家に成長させました。

【9代目】責稽王(286年~298年)

慰礼城を修復しました。帯方太守の娘である宝菓を夫人としていたため、帯方郡が高句麗に攻められた際、救援要請に応じました。このため、高句麗と緊張関係となりました。漢が貊とともに侵攻してきた折、敵兵に殺されました。

死去後、後継者争いが勃発し発岐(遼東郡の公孫氏を頼るが負けると自害した)と延優が争いました。

【10代目】汾西王(298年~304年)

楽浪の西部を奪取するも、楽浪太守の放った刺客によって殺害されました。

【11代目】比流王(304年~344年)

慰問使を巡回させ、寡婦・寡夫や独り身で自活できないものに穀物を渡しました。また毎月2回、軍事訓練を行うなど国力の増強に努めました。しかし、干ばつが続くと人々が互いに殺して人肉を食い合うようになるなど、国が安定していたわけではありませんでした。

【12代目】契王(344年~346年)

【13代目】近肖古王(346年~375年)

中国の歴史書や、日本の古事記、古事記に記されています。百済に帰化した高興によって漢字が導入されました。南北朝時代の中国と交流があり、朝貢貿易をしていました。その代わり王の称号を与え、支配を認めました(冊封)。阿直岐は日本に漢字を伝えました。

【14代目】近仇首王(375年~384年)

猜疑心が強く、一族を処刑しました(先代王の下で功績を残した弟・達賈も殺されました)。天災が続いて国民が餓え苦しんでいるのも構わずに、宮殿の増築・修復のための国民を使役しました。烽上王を廃したい臣下が、美川王を王位につけると、自害しました。

【15代目】枕流王(384年~385年)

これより以前の王の存在は不確かだが、枕流王から中国の歴史書や日本の「古事記」「日本書紀」に登場します。中国から百済に帰化した高興という博士が漢字をもたらし、高興は歴史書を記しました。東晋から胡僧の摩羅難陀を迎え、百済に仏教が入ってきました。

【16代目】辰斯王(385年~392年)

386年、15歳以上の国民を用いて関防を築かせて高句麗に備えました。
392年に広開土王(高句麗)が4万の兵を率いて侵略し、以北の諸城をほとんど奪われました。漢江の北の地・狗原という地まで逃げました。そこで百済の国臣に殺されたといわれています。

【17代目】阿莘王(392年~405年)

400年、百済と倭の連合軍が高句麗に侵攻し、敗北しました。

【18代目】腆支王(405年~414年)

夫人(八須夫人)は倭人であった説が有力視されています。王を中心とした権限の集中化を図りました。409年、倭国の応神天皇より太陽光を当てると暗闇でも光る夜明珠を下賜されました。

【19代目】久尓辛王(414年~429年)

若かったため、木満致が国政を行いました。

【20代目】毗有王(429年~455年)

新羅と和睦し、贈り物の交換を通じて両国の修好が成立しました(羅済同盟)。
南朝(宋)・百済・新羅・倭国 VS 北朝(北魏)・高句麗

【21代目】蓋鹵王(455年~475年)

南朝と通好をしてきたが、北魏への接触を図りました。

高句麗はスパイとして道琳という僧侶を送り込み「宮殿を立派にした方が良い」と進言しました。王はそれを実行し、その結果、人々は賦役に苦しみ、国庫は空っぽになりました。

475年、高句麗の長寿王により攻められ、戦死しました。ここでいったん百済は滅んだものと考えられています。

【22代目】文周王(475年~477年)

高句麗の長寿王に攻められている時に、新羅に救援を求め1万の兵を率いて都に戻ったが、既に先王は敗死していました。直ちに王位に就きますが、王権が低下していたため、解仇(佐平)の放った刺客に暗殺されてしまいました。

【23代目】三斤王(477年~479年)

幼かったため、解仇(佐平)が軍事、政治の一切の権限を握りました。解仇(佐平)が燕信(恩率(3等官))とともに反乱を起こしました。真男(佐平)と真老(徳率(4等官))を派遣し討伐させ、燕信は高句麗に亡命したため、妻子は斬首されました。こうして、解氏から真氏へと権力が移ったとみられています。

【24代目】東城王(479年~501年)

人質として日本に滞在していました。三斤王が死ぬと雄略天皇は当時人質として日本に滞在していた昆支王の5人の子供のなかで、幼少ながら聡明だったので、天皇は筑紫の軍士500人を付けて末多王を百済に帰国させ、王位につけて東城王としたと日本書紀に書かれています。

南朝斉に朝貢し、高句麗よりも低い爵号で冊封体制に入りました。新羅にも使者を送り、伊飡(2等官)の娘が嫁いできました。高句麗との戦いにおいて古くからの同盟国であった倭国から救援がなかった事を背景に非友好的な態度をとりました。王権と国力回復のための成果をあげたが、晩年は暗君となりました。衛士佐平の苩加の放った刺客に刺され、死去しました。

【25代目】武寧王(501年~523年)

武寧王陵からは百済文化の特徴がうかがわれる副葬品が多数出土しました。即位する前に日本に人質として出され、日本に子孫を残していたという話もあります。
512年、高句麗に壊滅的な打撃を与えました。

【26代目】聖王(523年~554年)

長寿王により衰退していた百済でしたが、着実に復興を遂げていました。

541年、百済と同盟関係(羅済同盟)を結ぶも、新羅討伐を企図し、ヤマト王権の介入を要請しました。
552年(532年説もある)、仏教を日本に伝えました。
553年、真興王が百済に攻め込み、一夜にして敵対する国に発展しました。
554年7月、新羅への復讐のため攻撃するも失敗し、新羅の将軍により命を奪われました。

【27代目】威徳王(在位:554年~598年)

554年、新羅を討とうとして、家臣が諫めるのも聞かず兵を起こし、緒戦で聖王が戦死しました。
561年、欽明天皇(倭国)の援軍や任那と呼応して新羅に攻め込み撤退しました。

日本との交流

威徳王の命で、画家の阿佐太子が来日し、聖徳太子の肖像画を描いたと伝えられています。『聖徳太子二王子像』は、日本で一番古い肖像画とされています。

韓国ドラマ 登場作品

花郎(ファラン)

KBS2016年12月19日~2017年2月21日放送

威徳王をキム・ミンジュンが演じた

朝鮮の三国時代・新羅に存在した王の親衛隊「花郎」をフィクションで蘇らせた名作。

【28代目】恵王(598年~599年)

【29代目】法王(599年~600年)

仏教を厚く信仰していた王で、殺生禁止令を出し、民家で育てる鷹をすべて野に放たせ、狩りに使われる道具も焼却しました。

600年、王興寺(残っていません)の建立を開始し、僧侶30人を得度させました。武王の代の634年に完成しました。
602年、観勒が暦を日本に伝えました

【30代目】武王(600年~641年)

朝鮮半島内での三国の争いが激しさを増しました。高句麗への対抗のために隋に朝貢し、介入を求める動きが活発となりました。

626年、新羅と仲が悪く、高句麗と和親を結びました。

【31代目】義慈王(641年~660年)

若い頃は親孝行で兄弟愛が強い人物でした。晩年になると、贅沢をしはじめ、望海亭という娯楽施設を作りました。

660年、唐・新羅の連合軍により滅亡しました。
663年、百済復興を目指す日本・百済連合軍VS唐・新羅連合軍(白村江の戦い)

参考&引用図書

マンガものがたり韓国史1~檀君神話から統一新羅まで~(国書刊行会)

一冊でわかる韓国史(河出書房新社)

百済王の一覧(wikipedia)

  • 韓国の歴史(三国時代:高句麗)
  • 韓国の歴史(三国時代:新羅)