【世界史】韓国の歴史(三国時代:新羅)
韓国ドラマで時代劇を見る前に、時代の流れを把握したい!と思い、本やネットで調べた事をまとめました。朝鮮半島の三国時代(新羅)の歴史です。
韓国の三国時代(新羅)の遺跡
慶州歴史地区(世界遺産)
紀元前57年から紀元935年まで1000年にわたって新羅の都でした。朝鮮半島の政治・文化の中心地として繁栄を極めました。
address:860 Wolseong-dong, Gyeongju, Gyeongju-si, Gyeongsangbuk-do, 韓国
石窟庵(世界遺産)
世界遺産です。新羅美術の最高峰とされ、花崗岩を切り出してドーム型に組んで建てられた洞窟寺院です。
address:238 Seokgul-ro, Gyeongju-si, Gyeongsangbuk-do, 韓国
仏国寺(世界遺産)
世界遺産です。新羅時代の貴重な遺跡の一つです。仏の世界である仏国土を再現した秀麗なる仏教建築として世界的に知られています。
address:385 Bulguk-ro, Gyeongju-si, Gyeongsangbuk-do, 韓国
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歴代王でたどる新羅の歴史
朝鮮半島南東部にあった辰韓諸国を統合しました。また、馬韓と辰韓の中心にあり、小国分立を繰り返しながら存続していた伽耶諸国(弁韓)を562年に滅ぼし、統一しました。新羅では、繊細で精巧な文化が育まれました。
【初代】赫居世居西干(紀元前57~紀元4年)
瓠の様な大きな卵から生まれたと言われています。この頃の人々は法律がいらないくらいに正直で、穀物も豊かに実ったため、ひもじさを知りませんでした。豊かな国である事から国の力も強いと見られ、楽浪なども迂闊に手を出せませんでした。
【2代目】南解次々雄(4年~24年)
倭人が100艘余りで侵攻し、民家を略奪しました。これに六部の精兵を派遣したところ、手薄になった首都を楽浪郡に攻められました。流星が落ちた事により撤退し、難を逃れました。
【3代目】儒理尼師今(24年~57年)
社会的弱者に食料を与えて養ったため、隣国から移入するものが多くいました。また、色々な産業を興し、特に機織りを奨励しました。
伝説として42年、6つの箱に金の卵が入っていました。卵が孵ると逞しい男子が育ち、一番最初に産まれた子供が加羅国の初代王となりました。
【4代目】昔脱解尼師今(57年~80年)
出生地は日本列島内であったとする説が多くあります。初めて隣の国を征服しました。
朴(パク)、昔(ソク)、(キム)
朴(パク):赤くて大きなヒサゴのような形をした卵から誕生したという神話を持つ初代王
昔(ソク):儒理尼師今の王妃が産んだ卵から昔脱解が誕生したという神話。
金(キム):ニワトリが鳴いた森の中で見つかった箱には男子がいました。子供がいなかった昔脱解が金閼智と名付けた。
朴(パク)、昔(ソク)、(キム)の3つの姓を持つ者が順番に王になりました。
【5代目】婆裟尼師今(80年~112年)
産業復興に努め、百済、加羅に対する国防強化を図りました。領土を広げました。
【6代目】祇摩尼師今(112年~134年)
113年、百済の己婁王が使者を送り、新羅と百済との間に盟友関係が出来上がりました。
125年、靺鞨が攻めてきたので百済に援軍を求め退けました。
伽耶を2回攻撃しましたが、ともに失敗しました。
【7代目】逸聖尼師今(134年~154年)
137年、139年に靺鞨の侵入を受け、長嶺を略奪されました。
内政では、農業が政の根本であるとして水利の修繕と農地改革を勧めました。また民間での金銀珠玉の仕様を禁止するという倹約を発しました。「民は農業に励み贅沢をせず貴重なものを持たぬようにせよ」と説きました。
【8代目】阿達羅尼師今(154年~184年)
道を作り、山を開拓しました。海岸に倭人が出没して略奪をしていました。倭人は、新羅の文物を習いました。
165年、新羅の阿飡(新羅の官位名)の吉宣が謀反を企て百済へ逃亡しました。百済が引き渡さなかった事に激怒しました。
166年、百済に2つの城を攻められて1000人を捕虜にされ、20,000の兵を連れて押し寄せました。その後、阿達羅尼師今が死去するまで新羅と百済の関係は平穏が保たれていました。
【9代目】伐休尼師今(184年~196年)
国人に推挙され即位しました。天候を占うことができ農業を基礎とした国づくりをしました。そして、国防も強力にしました。
193年、倭人が飢饉に見舞われ、食を求めて1000余人が新羅に流入したといわれています。
【10代目】奈解尼師今(196年~230年)
201年、伽耶国より和親を結ぼうと使者がやってきました。
209年、加羅に海辺の8つの国が侵入してきました。新羅に助けを求め、応じました。
百済と214年、218年、222年、224年…に戦い、守りきりました。
【11代目】助賁尼師今(230年~247年)
232年、攻めてきた倭人を壊滅させました。
233年、攻めてきた倭人の兵船を焼き払い撃退しました。
245年、高句麗の侵入を受け、勝てずに馬頭柵まで退却しました。
【12代目】沾解尼師今(247年~261年)
248年2月、高句麗に対して講和を行い、百済との交戦に集中する政策を採りました。
261年3月、百済古尓王が和親の使者を送ったが、黙殺しました。
【13代目】味鄒尼師今(262年~284年)
高句麗と百済より遅れて古代国家の基礎がためをしました。完全な古代国家になったのは、17代目の時でした。
【14代目】儒礼尼師今(284年~298年)
【15代目】基臨尼師今(298年~310年)
【16代目】訖解尼師今(310年~356年)
王位を継承する子がなく、昔氏王統の最後の王となりました。
【17代目】奈勿尼師今(356年~402))
~53代目まで、金氏が王位を継承していきました。高句麗に従属していました。
382年、中国(前秦)に朝貢して庇護を求めました。
391年、日本が海を渡って大量の兵を送り、新羅、百済、加羅を破り服属させました。日本に王子を人質として差し出しました。
国号を「斯盧」から「新羅」に改め、「新羅」が国際的に通用する国号となりました。高句麗と百済より遅れたが、完全な古代国家になりました。
【18代目】実聖尼師今(402年~417年)
前国王の息子を高句麗と倭国に人質として送りました。
【19代目】訥祇麻立干(417年~458年)
このころ仏教が入ってきたといわれています。新羅は山や川に祈る土俗信仰が深く根を下ろしていたため、定着しませんでした。
朴堤上
新羅の武将で忠臣として知られています。先代王が倭国と高句麗と講和を結ぶ際、人質として送った訥祇麻立干の弟たちを助け出し、自らは処刑されてしまいました。
【20代目】慈悲麻立干(458年~479年)
度々倭人と戦いいくつもの城を築いた事が知られています。
【21代目】炤知麻立干(479年~500年)
490年、はじめて王都金城に市場を設け、新羅の各地から物産が集まりました。
493年、百済から通婚を求められ伊伐飡(1等官)の娘を百済東城王に送りました。
2回の大赦と被災者・寡婦・寡夫への施しを3回行い、領域内に郵駅を設置し、官道の修繕を命じるなど、国家としての地方統治が本格化しました。
【22代目】智証麻立干(500年~514年)
502年、殉葬を禁止しました。
503年、君主号を王に統一し、正式に新羅国王と号することにしました。
506年、州郡県制を定めました。
509年、市場を開き、市場を管理する市典の官を設けました。
514年、阿尸村に小京を置いて入植を奨励しました。
『三国遺事』には、延帝夫人は、大便の大きさで妃に選ばれたという記述があるそうです。
【23代目】法興王(514年~540年)
様々な国家制度の整備をしました。
520年、官位制度を整え、官職ごとに服と色彩で序列を定め、律令による政治を敷こうとしました。
527年、倭国が新羅に進軍中、磐井の乱(朝鮮半島南部へ出兵しようとした大和朝廷軍が九州の有力豪族である磐井氏によって阻まれました。原因は不明だが、新羅のはたらきかけがあったのでは?という説があります。)は起こりました。
528年、貴族層の反対を押し切って仏教の公認を行い、法律でも認めました。
536年、新羅独自の年号を初めて定め、王権の強化を果たしました。
【24代目】真興王(在位540~576)
7歳で即位したため、母(チソ皇太后)がかわりに政務を仕切りました。成人すると積極的に対外戦争をし、領土拡張を進め、新羅の国力を飛躍的に拡張させました。
541年、百済と同盟関係(羅済同盟)になりました。
548年、高句麗が百済に攻め込んだ際には百済を援助しました。
549年、覚徳が中国から仏舎利を持ち帰る。先代王の仏教公認を更に推し進めました。
553年、百済軍に攻め込み、一夜にして敵同士になりました。
554年、伽耶と連合した百済の聖王を戦死させました。
555年、領土の拡大を記念した巡狩碑を建てました。
562年、伽耶を滅ぼし、新羅の領土となりました。朝鮮半島は三国時代へ突入しました。
576年頃 花朗の制定
韓国ドラマ 登場作品

花郎(ファラン)
KBS2016年12月19日~2017年2月21日放送
真興王をパク・ヒョンシクが演じた
朝鮮の三国時代・新羅に存在した王の親衛隊「花郎」をフィクションで蘇らせた名作。
花郎
真興王は、美しい娘二人(南毛と俊貞)を選んで源花と呼びました。二人は仲違いをし、俊貞が南毛を殺してしまいました。源花の制度は廃止され、男子の中から選ぶ花郎が制定されました。花郎は、心身を磨き活躍しました。
骨品制
新羅の身分制度。出身氏族によって身分を五段階に分けて、位階・官職・婚姻・衣服・住居に至るまでを規制しました。
骨身分:新羅の王族
聖骨(ソンゴル):父母共に王族に属する者。王につながる一族で、この地位の者だけが王位につける。
真骨(チンゴル):王族の家系に属する者。両親の片方が王族であるなど王につながる一族だが、原則王位にはつけないが、29代武烈王が王位に就いた。
六頭品(ユクトゥプム):(上流)貴族。王族ではない人々の中で最も有力な階層。
五頭品(オドゥプム):(中流)貴族。
四頭品(サドゥプム):庶民に近い貴族。
【25代目】真智王(在位576~579)
【26代目】真平王(579年~632年)
円光法師の世俗五戒が花郎の守るべき基本的な心構えとされました。
①「仕君の忠」王に忠誠をもって仕える事
②「仕親の孝」親には孝行すること
③「交友の信」友とは信頼しあって交わること
④「臨戦無退」戦いでは決して退かないこと
⑤「殺生有択」生き物をみだりに殺さない
602年、花郎を率いて百済と交戦しました。臨戦無退により、百済軍を打ち破りました。
【27代目】善徳女王(632年~647年)
新羅初の女帝でした。国際的に孤立した状況を打開しようと唐に積極的に朝貢を重ねました。唐や女王を認めず、身内を新羅の王にするよう求めてきました。淵蓋蘇文(高句麗の将軍)は百済と手を結んで、新羅への攻撃を開始しました。
640年、王族の若者を数多く留学生として唐に派遣しました。これにより唐の文化が新羅に流入しました。
647年、親唐派、反唐派による内紛に自ら出征した女王が病死しました。
【28代目】真徳女王(647年~654年)
善徳女王の妹といわれる人物です。
649年、唐の衣冠礼服の制度をとりいれ、唐の年号を用いるなど唐との関係を盤石なものしました。これ以降、新羅の独自年号は用いられなくなりました。
652年、理方府(立法)を新設しました。
【29代目】武烈王(654年~661年)
王位を継ぐ聖骨がいなかったことから、和白会議(新羅の合議制度)を開いて選びました。一人でも反対すると決めることができませんでした。
唐と新羅の同盟が成立しました。そして唐は、新羅の求めに応じて、高句麗の同盟国である百済の攻略に協力しました。
660年、百済滅亡
668年、高句麗滅亡
