韓国ドラマで時代劇を見る前に、時代の流れを把握したい!と思い、本やネットで調べた事をまとめました。朝鮮半島の統一新羅時代の歴史です。日本では統一新羅時代と呼ばれる時期(韓国では南北国時代、北朝鮮では渤海および後期新羅時期と表記される)です。

韓国の統一新羅時代の遺跡

石窟庵(世界遺産)

世界遺産です。新羅美術の最高峰とされ、花崗岩を切り出してドーム型に組んで建てられた洞窟寺院です。

address:238 Seokgul-ro, Gyeongju-si, Gyeongsangbuk-do, 韓国

仏国寺(世界遺産)

世界遺産です。新羅時代の貴重な遺跡の一つです。仏の世界である仏国土を再現した秀麗なる仏教建築として世界的に知られています。

address:385 Bulguk-ro, Gyeongju-si, Gyeongsangbuk-do, 韓国

海印寺(世界遺産)

海印寺は、韓国・伽耶山に佇む韓国三大寺院の一つ。世界遺産「八萬大蔵経」を収蔵する蔵経板殿で知られ、歴史と自然、美しい紅葉を楽しめる名刹です。

address:122 Haeinsa-gil, Gaya-myeon, Hapcheon-gun, Gyeongsangnam-do, 韓国

慶州歴史遺跡地区(世界遺産)

新羅王朝の都・慶州に残る歴史遺産群。景哀王が最期を迎え、新羅滅亡の舞台とされる場所(慶州月城)や、古墳、公園、寺院跡などが点在し、“屋根のない博物館”と呼ばれる世界遺産です。

address:860 Wolseong-dong, Gyeongju, Gyeongju-si, Gyeongsangbuk-do, 韓国

大陵苑

新羅時代の王や貴族の古墳群。内部公開されている古墳もあり、華やかな副葬品や当時の文化から、新羅王族の世界観を身近に感じられます。

address:31-1 Hwangnam-dong, Gyeongju-si, Gyeongsangbuk-do, 韓国

清海鎮遺跡

張保皐が拠点とした海上基地跡。海上交易と軍事の要衝で、彼の勢力の大きさを実感できる場所です。

address:韓国 전라남도 완도군 완도읍 장좌리 734

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歴代王でたどる新羅の歴史

7世紀後半に朝鮮半島統一を果たした新羅が、935年に滅亡するまで続いた時代です。唐と協力して百済・高句麗を滅ぼし、朝鮮半島の大部分を支配しました。都・慶州を中心に仏教文化が栄え、仏国寺や石窟庵など数多くの文化遺産が築かれました。国際交流も盛んで、東アジア文化が花開いた時代です。

【30代】文武王(661年〜681年)

百済・高句麗の滅亡と唐との抗争を経て、統一新羅体制を確立しました。父・武烈王の志を継ぎ、三国統一事業を本格化させました。

663年、白村江の戦い。新羅・唐連合軍が百済復興軍と倭(日本)の援軍を破り、百済再興の可能性を断ちました。
668年、高句麗滅亡。唐の李勣と協力して高句麗を討ち、滅ぼして三国鼎立(三国が対立しながら並存する状態)の時代に終止符を打ちました。しかし、これは新羅単独の統一ではなく、唐の勢力が半島へ本格的に進出する契機ともなりました。

高句麗を倒すために唐と結んだものの、唐は百済に熊津都督府、高句麗に安東都護府を置き、遺臣を用いて統治しようとしました(羈縻〔きび〕政策)。一方、高句麗の残存勢力は復興運動軍を組織し、唐に対する反抗運動を展開しました。これが高句麗と新羅の接近につながるきっかけとなりました。

羈縻政策とは?

中国王朝が周辺の異民族や旧支配層を「羈」=つなぐ、「縻」=しばる、「ゆるく従わせる」統治方法です。完全な直接支配を行うのではなく、現地の有力者をそのまま用い、名目上は唐の皇帝に従属させる形を取らせました。

遠隔地を直接統治するには大きな負担がかかり、反乱も起こりやすいため、事情をよく知る地方豪族に統治を委ねる方法が採られました。しかし、民族意識までは消えないため、旧王朝復興運動が起こる可能性を内包していました。

670年、唐が旧百済と手を結び侵攻しましたが、新羅はこれを撃退しました。
671年、新羅VS唐 新羅が大々的に勝利。その後も戦闘は続き、最終的に新羅は唐勢力を朝鮮半島から排除することに成功します。

新羅だけでは唐に対抗するのは厳しいと判断した文武王は、百済と高句麗の遺臣を取り込み、単なる征服ではなく三国統合国家(三国の融合)の形成を目指しました。

朝鮮半島の実質的な統一を成し遂げた文武王は、681年7月1日に死去しました。新羅で初めて火葬された王となりました。

【31代】神文王(681年〜692年)

統一新羅体制を実質的に完成させた王です。父(文武王)の代で成し遂げた戦いによる半島統一を、国内制度の整備によって国家として安定させました。

681年に即位。即位直後、貴族勢力による反乱(いわゆる金欽突の乱)が発生しました。これは、王権強化に反発した真骨貴族層の動きでしたが、神文王はこれを鎮圧し、王権を強固にしました。

金欽突の乱とは?

即位直後の神文王に対し、真骨貴族の有力者・金欽突(義父)が反乱を企てました。計画は事前に発覚し、実行前に鎮圧されます。神文王は金欽突を処刑し、関係者も連座して処罰しました。さらに、金欽突の娘であった王妃を廃し、外戚勢力の影響力を断ち切りました。この厳しい処断は、貴族連合的な政治から王権中心体制へ転換する大きな契機となりました。

682年、国学を設置教育機関として国学をつくり、国立大学の役目を果たしました。儒学教育を行う国家機関であり、官僚育成を目的としました。これは唐の制度を参考にしたもので、王権に忠実な官僚層を育てる体制を整える意図がありました。

685年、九州五小京体制を確立。有力貴族がそれぞれ広い土地や多くの民を支配し、経済力と軍事力を背景に強い政治的発言力を持っていました。王は名目上の最高権力者であっても、実際には貴族との合議や妥協が必要な体制でした。そこで、神文王は全国を九州に再編し、さらに五小京を設置して地方統治を強化しました。これにより、有力貴族が支配していた地方を中央政府の管理下に置き、王権の強化を進めました。

689年、録邑(ろくゆう)を廃止。神文王は貴族に与えられていた録邑(租税を徴収できる土地)を廃止し、食邑(王族や功臣に与えられた生活費用の土地や村)を与えました。貴族の経済力を抑えて中央集権化を進めましたが、貴族の反発は強く、後に一部復活しました。

録邑と食邑

録邑:王が貴族に与えた封地で、その地域の租税や労役を徴収する権利を含みました。実質的な経済基盤となり、貴族がその土地の住民に対する支配権を含むなど、地方に強い支配力を持つ原因となりました。

食邑:王が貴族に与えた収入源ですが、徴税権や行政権までは認められませんでした。一定の収穫や税収を受け取るのみで、録邑よりも権限が制限された形態です。国家に対する特別な功績や、王族・貴族に対する恩恵として与えられ、比較的長期間にわたり、世襲が認められる場合もありました。

【32代】孝昭王(692年〜702年)

若年であったため政治は重臣層の補佐のもとで行われました。統一新羅の体制はまだ安定途上にあり、王権と貴族勢力の均衡を保ちながら国政が運営された時期でした。対外的には唐との冊封関係を維持し、戦乱のない比較的平穏な外交関係を保ちました。大規模な制度改革や軍事遠征は見られませんが、統一後の国家体制を維持し、次代へつなぐ安定期として重要な治世と評価されています。

698年、旧高句麗系勢力により渤海が建てられ、南の新羅と対峙しました。

702年に死去。唐の武則天や日本の文武天皇もその死を悼み、統一新羅が東アジアで重要な存在だったことがうかがえます。

【33代】聖徳王(702年〜737年)

統一新羅の最盛期を築きました。

706年、唐より冊封を受ける。唐との冊封関係を通じて国際的地位を確立し、安定した外交関係を維持しました。

721年、北方国境に長城を築き、渤海や靺鞨への防衛を強化しました。これは国境を明確にし、統一新羅の王権と国家の安定を示す政策でもありました。

722年、丁田を支給。「丁」は租税や労役を負担する成年男性を指し、「田」は耕作地を意味します。国家が人民を直接把握し、その労働力に応じて土地を与えることで、土地支配を中央の管理下に置き、貴族の私的基盤を抑える意図があったと考えられています。ただし、全国的にどの程度実施されたのかは史料が乏しく、実態については議論が続いています。

735年、唐から浿江以南の領有を承認され、新羅の北限が国際的に認められ、領土支配が安定しました。

【34代】孝成王(737年〜742年)

【35代】景徳王(742年〜765年)

唐の制度や文化を積極的に取り入れ、国家体制の整備を進めました。

751年、仏国寺・石窟庵の建立開始。国家的仏教事業として造営が始まり、統一新羅文化の成熟を象徴する大事業となりました。

757年、地名・官名を唐風に改める。全国の州郡名や官職名を漢風に統一し、唐にならった制度改革を進めました。国家の格式を高め、中央集権体制を強化する意図がありました。

757年、録邑(ろくゆう)を復活。神文王が廃止した録邑を復活させ、貴族に租税徴収権を再び認めました。これは貴族勢力との妥協を示すものであり、王権と貴族の均衡を図る政策と考えられています。

この時期、仏教文化は大きく発展し、仏国寺や石窟庵の建立が進められるなど、統一新羅文化は成熟期を迎えました。一方で、録邑の復活に見られるように、貴族勢力との妥協も進み、王権と貴族の均衡の上に成り立つ治世でもありました。

【36代】恵恭王(765年〜780年)

幼少(8歳前後)で即位しました。非常に若い年齢で王位に就いたため、実際の政治は母の満月夫人(王太后)や重臣層が主導したと考えられています。統一新羅最盛期の後を継いだ王でしたが、その治世は次第に社会不安と貴族間の対立が深まり、政治的混乱が進行していく時期となりました。

768年以降、反乱が頻発。各地で貴族や地方勢力による反乱が起こり、中央の統制力は次第に低下しました。これは、景徳王期に復活した録邑制度によって貴族の経済基盤が再び強まったことも背景にあると考えられています。

774年、仏国寺・石窟庵完成

780年、貴族勢力の争いの中で王が殺害され、統一新羅は本格的な動揺期へと入ります。

【37代】宣徳王(780年〜785年)

王都では反乱が続き、王位簒奪が繰り返される不安定な時代が始まります。宣徳王は王族出身でしたが直系ではなく、この即位により王統は武烈王系から奈勿王系へと移りました。治世は短期間でしたが、動揺した国内の安定回復に努め、王権は貴族との協調を前提とする体制へと変化していきました。

【38代】元聖王(785年〜798年)

788年、読書三品科を設置。儒教経典の理解度によって官人を評価する制度で、能力本位の登用を目指しました。しかし、骨品制という身分制度の枠を根本から崩すものではなく、効果には限界がありました。

【39代】昭聖王(798年〜800年)

【40代】哀荘王(800年〜809年)

13歳で即位しました。日本と親善を結びました。律令体制の没落が始まっていたと見られています。

801年、耽羅国(済州島)から朝貢を受ける。
802年、海印寺を建立しました。のちに新羅仏教を代表する大寺院となります。
803年、日本と国交が再開。
806年、仏寺の創建を禁止し、修繕のみ認める。これは寺院増加による財政圧迫を抑える措置と考えられています。
809年、摂政であった金彦昇(のちの憲徳王)が伊飡・悌邕とともに反乱を起こし、哀荘王は王弟の体明侍衛とともに殺害されました。

【41代】憲徳王(809年〜826年)

哀荘王の叔父にあたり、809年の反乱で哀荘王を殺害して即位しました。

憲徳王の時代は、政治的動揺だけでなく、社会不安も深刻でした。度重なる災害により凶作が発生し、民衆が飢える事態がしばしば起こりました。国家の統制力が弱まるなかで、かつて国家的青年組織として機能していた花郎も次第に規律を失い、堕落が指摘されるようになります。

また、生活苦から国外へ流出する人々も増加しました。とくに唐沿岸では海賊が横行し、新羅人が捕らえられて奴婢として売られるという悲惨な事件も発生しました。

【42代】興徳王(826年〜836年)

828年、張保皐に1万の兵を与え、清海鎮を設置して海賊を討伐。張保皐は唐で武寧軍少将として活動したのち帰国し、唐沿岸で横行していた海賊が新羅人を拉致して奴婢として売っている実情を朝廷に報告しました。これを受けて、興徳王は彼に約1万の兵を与え、海上治安の回復を命じます。

828年、唐から 차(茶)の種子を導入。金大廉が持ち帰った茶が広まり、新羅での茶文化が本格化したと伝えられます。

834年、服飾・住宅の規制を実施。身分に応じた衣服・車・住宅規模を細かく定め、骨品制秩序の維持を図りました。これは貴族社会の奢侈を抑え、身分秩序を再確認する政策でした。

張保皐 ― 海を支配した新羅人

張保皐は、新羅後期を代表する海上勢力の指導者です。790年頃に新羅南部の海岸地帯に生まれ、身分秩序が固定化した社会の中で活路を求め、若くして唐へ渡りました。徐州武寧軍に入り軍中小将にまで昇進するなど、実力で地位を築きます。

帰国後、唐沿岸で新羅人が海賊に捕らえられ奴婢として売られている実情を朝廷に訴えました。828年、興徳王は彼に兵を与え、莞島に清海鎮を設置。海賊を討伐し、黄海・東シナ海の交易を掌握しました。やがて東アジア海上ネットワークを支配する存在となり、「海上王」とも称されました。しかし、その強大な勢力は王権にとって脅威ともなり、後に暗殺されました。

【43代】僖康王(836年〜838年)

838年、金祐徴(のちの神武王)らの挙兵。張保皐の支援を受けた金祐徴が反乱を起こし、王都に迫ります。僖康王は劣勢となり、自害したと伝えられています。

【44代】閔哀王(838年〜839年)

839年、神武王の挙兵。張保皐の支援を受けた金祐徴が再び挙兵し、閔哀王を攻撃。閔哀王は敗れて殺害されました。海上勢力が王位決定に直接関与するという新しい政治構図が生まれます。

【45代】神武王(839)

【46代】文聖王(839〜857)

名は金慶膺(きん けいよう/김경응)。神武王の子で、父の即位を支えた張保皐の強大な海上勢力の影響下にありました。関係強化のため王は張保皐の娘を王妃に迎える約束をしましたが、王族・貴族層は身分秩序を揺るがすとして強く反発します。これを受けて王は婚約を破棄し、両者の対立は決定的となりました。

やがて846年、張保皐は部下によって殺害され、海上勢力は大きく後退しました。

【47代】憲安王(857〜861)

王位は依然として元聖王系の王統の中で継承されていましたが、政治の実権は次第に有力貴族層に移りつつあり、王権は以前ほど強い主導力を持てなくなっていました。

858年、4月の晩霜、5月から7月にかけての干害により農作物に被害が出ました。
859年春には穀物が高騰し、多くの国民が飢饉に苦しみました。憲安王は救済のため各地に使者を派遣し、穀物を分け与えるとともに、堤防の修築を行い農業振興に努めました。

【48代】景文王(861〜875)

中央貴族や地方豪族の影響力は依然として強く、王権は完全な独立性を持てませんでした。

863年、地方豪族の反乱や民衆の不満が散発的に発生しましたが、景文王は柔軟な政策でこれを鎮圧しました。また、仏教の振興にも力を入れ、寺院の修築や仏像の造立を通じて王権の威信を示しました。

【49代】憲康王(875〜886)

876年、旱魃と飢饉により民衆生活が悪化しました。中央では繁栄が続く一方、地方では盗賊や豪族が台頭し、統一新羅の支配体制は次第に揺らいでいきました。

【50代】定康王(886〜887)

王位を継承しましたが、統一新羅はすでに地方豪族の台頭や盗賊の増加により、中央の統制力が大きく低下していました。王権は名目的なものとなり、実質的な支配力は弱まっていました。

この頃、各地で反乱や治安の悪化が見られ、国家の秩序は揺らいでいました。中央では依然として貴族勢力の影響が強く、政治の主導権も分散していました。

【51代】真聖女王(887〜897)

新羅最後の女王です。

889年、租税の強化と農民反乱。財政難から租税を強化した結果、各地で農民反乱が発生します。特に元宗・哀奴の乱は大規模で、地方支配の崩壊が表面化しました。この時期、甄萱や弓裔といった新勢力が台頭し、後三国時代へとつながる動きが始まります。中央政府はこれらを十分に抑えることができず、国家の分裂が進行しました。

897年、退位。王権の弱体化と政治混乱の中で退位し、統一新羅は実質的に崩壊へと向かっていきます。

崔致遠

新羅末期の文人で、12歳と時に唐へ渡り、17歳で科挙に首席で合格しました。唐で起こった黄巣の乱で檄文を書き、その名を高めました。28歳で新羅に帰国し女王から侍読兼翰林学士に任命されました。しかし、国政の乱れに絶望し海印寺に家族を連れて籠り世間との関わりを立ってしまいました。

【52代】孝恭王(897年〜912年)

900年、甄萱が後百済を建国。地方豪族から台頭した甄萱が独立し、後百済を建てます。

901年、弓裔が後高句麗(のちの高麗)を建国。弓裔もまた新羅から離反し、新たな国家を樹立しました。

この結果、朝鮮半島は再び三国に分裂し、「後三国時代」が始まります。新羅はもはや一国としての主導権を失い、地方勢力に押される立場となりました。

【53代】神徳王(912年〜917年)

この頃の新羅はすでに後三国時代に入り、甄萱の後百済、弓裔の後高句麗(のちの高麗)に挟まれ、国力は大きく衰退していました。王権は名目的な存在となり、実質的な支配は地方豪族に委ねられていました。

神徳王は元来、王統の中心である奈勿王系ではなく、地方有力者の出身とされ、王位も有力勢力の支持によって成立したと考えられています。これは王位が完全に「実力と後ろ盾」で決まる時代に入ったことを示しています。

【54代】景明王(917年〜924年)

すでに新羅は後三国時代に入り、国力は大きく衰退していました。王権は名目的なものとなり、地方豪族や周辺勢力の影響を強く受ける状況でした。

918年、王建が高麗を建国。弓裔に代わって王建が政権を掌握し、新たな国家・高麗を樹立します。これにより、新羅は後百済と高麗に挟まれる厳しい立場となりました。

この時期、新羅は独立国家としての主導権をほぼ失い、周辺強国との関係維持に追われる状況が続きました。

【55代】景哀王(924年〜927年)

927年、後百済の侵攻(慶州陥落)。甄萱が新羅の都・慶州を攻撃し、王宮に侵入しました。景哀王は酒宴の最中に襲撃を受け、最終的に自害に追い込まれたと伝えられています。

この事件により、新羅は事実上の壊滅状態となり、王都も大きな打撃を受けました。

【56代】敬順王(927年〜935年)

景哀王の死後、後百済の甄萱によって擁立され、新羅最後の王として即位しました。実権はほとんどなく、国はすでに存続が危うい状態でした。

930年代、高麗との関係強化。勢力を伸ばす王建(高麗)に接近し、外交的に生き残りを図ります。

935年、新羅の降伏。自ら王位を退き、高麗に降伏することで約1000年続いた新羅は滅亡しました。敬順王は王建に厚遇され、高麗の貴族として遇されました。

  • 韓国の歴史(三国時代:新羅)