【世界史】韓国の歴史(高麗前半:文治政治)
韓国ドラマで時代劇を見る前に、時代の流れを把握したい!と思い、本やネットで調べた事をまとめました。高麗前半は王建(ワン・ゴン)の建国から始まる高麗前半(918~1170)の歴史です。
この時代を一言でいうと「文治政治」の時代!インテリ貴族たちが優雅に政治を行い、華やかな仏教文化や高麗青磁が花開いた、高麗の黄金期にあたります。
韓国の高麗時代の遺跡
海印寺(世界遺産)
海印寺は、韓国・伽耶山に佇む韓国三大寺院の一つ。世界遺産「八萬大蔵経」を収蔵する蔵経板殿で知られ、歴史と自然、美しい紅葉を楽しめる名刹です。
address:122 Haeinsa-gil, Gaya-myeon, Hapcheon-gun, Gyeongsangnam-do, 韓国
江華山城
1232年から約40年間、高麗の臨時首都が置かれました。
address:산43-1 Gwancheong-ri, Ganghwa-eup, Ganghwa-gun, Incheon, 韓国
高麗宮址
高宗時代に王宮として利用された場所。高麗がモンゴルと長期抗戦した歴史を今に伝えています。
address:394 Ganghwa-daero, Ganghwa-eup, Ganghwa-gun, Incheon, 韓国
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歴代王でたどる高麗の歴史
高麗(こうらい、コリョ、918年〜1392年)時代は、新羅による統一が崩れた後、王建(太祖)によって再び朝鮮半島が一つにまとめられた、約470年間にわたる躍動的な中世王朝の時代です。
現代の「コリア(Korea)」という呼称の語源となったこの時代は、独自のきらびやかな文化を花開かせると同時に、絶え間ない外圧に立ち向かった激動の歴史でもありました。
【初代】太祖(王建)(918年〜943年)
高麗の建国者であり、後三国時代を終わらせた人物です。
918年、高麗建国。王建は後高句麗(弓裔政権)の部下でしたが、弓裔の暴政に対する不満が高まる中で擁立され、新たな王として即位しました。
935年、新羅を吸収。敬順王が自ら降伏し、新羅は滅亡。王建は比較的穏やかな形で統合を進めました。
936年、後百済を滅ぼし統一。甄萱の後百済を滅ぼし、朝鮮半島を再統一しました。
訓要十条
太祖(王建)が後継の王たちに残した統治のための遺訓(ルール集)です。「高麗を安定させるために守るべき10の約束」として、仏教の尊重、風水、対外政策、そしてリアルな政治的戒めが記されています。
- ① 仏教を尊重し、国家の安定の基盤とすること
- ② 寺院の乱立を避け、無駄な建立を控えること
- ③ 王位継承は長子を基本とし、内乱を防ぐこと
- ④ 中国の制度は取り入れるが、我が国の風土に合わせて無理に従いすぎないこと(契丹の習俗は真似ないこと)
- ⑤ 風水を重視し、都や重要施設の立地に注意すること
- ⑥ 西京(平壌)を重視し、国家の拠点とすること
- ⑦ 臣下や領民の心を掴み、賞罰を明確にし、讒言(悪口)を信じないこと
- ⑧ 車嶺山脈以南・錦江以外の地域(旧後百済の地)の人間は、反乱の恐れがあるため要職に登用しないこと
- ⑨ 軍隊や官僚の待遇を適正にし、国防を安定させること
- ⑩ 歴史や古典に学び、おごり高ぶることなく政治を行うこと
【2代】恵宗(943年〜945年)
初代・太祖(王建)の長男であり、父と共に戦場を駆け抜けて建国を支えた、本来は文武に優れた名君の素質を持つ人物でした。
しかし、恵宗の母親(荘和王后)は、地方の身分の低い豪族の出身でした。そのため、朝廷内に恵宗を命がけで守ってくれる強力な実家(外戚)がありませんでした。
強力な豪族・王規は、自分の孫を王にするため、公然と恵宗の命を狙うようになります。歴史書『高麗史』には、寝室に忍び込んだ刺客を恵宗が自らの拳で殴り倒したという逸話が残されていますが、王規の権力が強大すぎたため、恵宗は彼を処罰することすらできませんでした。
周囲の誰も信用できなくなった恵宗は、常に異母弟たち(後の定宗・光宗)や豪族たちの目を恐れ、常に多くの兵士に身辺を護衛させて暮らしました。過度なストレスから病を患い、わずか2年で崩御。その死の直後、待ってましたと言わんばかりに凄惨な権力闘争(王規の乱の鎮圧と定宗の即位)が勃発することになります。
恵宗の悲劇は、彼自身の能力不足ではなく、太祖が遺した「多婚政策」という負の遺産が原因でした。この恵宗の苦難を間近で見て育った異母弟の光宗(4代王)が、後に「豪族の徹底的な大粛清」というドラスティックな政治へ舵を切る原動力となったのです。
王規
初代・太祖(王建)に仕えて建国を支えた有力豪族です。太祖に娘を嫁がせて絶大な権力を握り、その間に生まれた自身の孫(広州院君)を次の王へ就けようと画策しました。
そのため、後ろ盾の弱い第2代王・恵宗(ヘジョン)と激しく対立。恵宗の寝室に刺客を送り込むなど、公然と王の命を脅かす存在となります。しかし、恵宗が病没すると、軍事力を持つ他の王族・豪族たちに先手を打たれ、一族もろとも粛清されました(王規の乱)。
恵宗にとっては、もう一人の娘を側室に迎えた「義理の父」でありながら「命を狙ってくる政敵」でもあり、初期のドロドロした権力闘争を象徴する人物でした。
【3代】定宗(945年〜949年)
恵宗の崩御後、政敵であった王規の一派を軍事力で一挙に粛清(王規の乱の鎮圧)し、王位に就きました。しかし、即位後も有力豪族たちの牽制に苦しみ、政局は不安定な状態が続きました。
西京(平壌)への遷都計画。北方防衛の強化と、王の権力を高めるために風水思想を重視し、西京への遷都を強硬に進めようとしました。しかし、開京(首都)の豪族たちの猛反発や、遷都の労働に駆り出された民衆の怨嗟の声を浴び、実現直前に定宗自身が急死したため、計画は幻に終わりました。
【4代】光宗(949年〜975年)
956年、奴婢按検法を実施。不当に奴隷とされていた人々を解放し、国家が直接把握する民を増やしました。これにより豪族の私的支配を弱めました。
958年、科挙制度を導入。能力によって官僚を登用する制度を整え、血縁や家柄に頼らない政治体制を築きました。
粛清の実施。王権強化のため、反対勢力となる豪族や王族を徹底的に排除し、強力な中央集権体制を確立しました。
975年、死去。
在位は約26年と長く、高麗の国家体制を整えた重要な王です。一方で、強硬な政策により「恐怖政治」とも評される側面もありました。光宗の治世は、建国直後の不安定な体制から脱し、王中心の国家へ転換した時代といえます。
【5代】景宗(975年〜981年)
光宗の強力な王権政策を引き継ぎつつも、急激な改革による反発を和らげる必要がありました。
976年、田柴科の制定
官僚に土地と柴(燃料採取地)を支給する制度を整え、官僚機構の安定を図りました。これは官僚に対する給与制度の確立を意味します。
光宗の粛清で緊張していた貴族層との関係を調整し、体制の安定に努めました。
田柴科
官僚への給与制度。役人にお給料として土地を与える仕組み。「田」=農地(収穫=収入)、「柴」=山林(燃料や資源)を官僚の身分や役職に応じて、これらを支給しました。
それまでの政治は豪族が土地と人を支配していたのに対し、田柴科によって国家が官僚を直接養う仕組みに変わります。「官僚が国家に忠誠を持ち、豪族の力が相対的に弱まる」という効果がありました。
【6代】成宗(981年〜997年)
光宗・景宗の政策を受け継ぎつつ、より制度的な国家づくりを進めました。
名臣・崔承老(チェ・スンノ)が提案した、国家改革のための上奏文『時務28条』を全面的に受け入れました。これにより、政治の理念を従来の仏教中心から儒教的へと転換し、官僚制度の整備を一気に進めました。学問や官僚教育も重視されるようになります。
986年、国子監の整備。官僚養成機関を充実させ、人材育成体制を強化しました。
対外関係の安定化。北方の契丹(遼)との緊張関係が続く中、外交と防衛の両面で体制を整えました。
中央集権的な官僚国家としての基盤を確立し、高麗の国家体制を完成に近づけた重要な王です。成宗の治世は、豪族連合国家から官僚国家へと転換した時代といえます。
崔承老が提案した、時務28条とは?
ここに「地方に官僚を派遣すべき」「仏教は個人の修養にとどめ、政治は儒教で行うべき」といった内容が含まれており、成宗はこれを丸ごと採用して「12牧の設置」や「国子監の整備」を行いました。
国子監とは?
国家が運営する最高教育機関。官僚になるためのエリート学校(国立大学)。儒教(政治の基本思想)を学び、科挙(試験)合格を目指し、将来の官僚を育成しました。
高麗はもともと豪族中心の社会でしたが、国子監の整備により学問と試験で官僚を選ぶ仕組みが強化されました。つまり「血筋 → 実力(学問)」へ、「豪族 → 官僚国家」へという変化を支えた制度です。
【7代】穆宗(997年〜1009年)
成宗の整えた官僚制度を引き継ぎましたが、政治の実権は外戚勢力に移りつつありました。
外戚・金致陽の専横。母方の関係者である金致陽が権力を握り、政治を主導しました。これにより宮廷内の対立が激化し、王権は大きく弱体化します。
1009年、康兆の政変。康兆がクーデターを起こし、金致陽を排除。穆宗も廃位され、その後殺害されました。
金致陽(キム・チヤン)
穆宗の時代に実権を握った外戚(王の母方の関係者)です。金致陽は、王の母であり絶大な権力を持っていた千秋(チョンチュ)太后と深い関係を結び、宮廷内で急速に勢力を拡大しました。二人の間に男の子が生まれると、病弱で子供のいなかった穆宗の後継者としてその子を王位に就け、高麗の実権を握ろうと画策します。 あまりにも露骨な権力奪取の動きに宮廷内や軍人勢力の反発が強まり、最終的に1009年の康兆(カン・ジョ)の政変を引き起こす決定打となりました。
康兆(コウチョウ)
1009年に康兆の政変を起こした高麗の武将です。元々は「金致陽が王(穆宗)を殺した」という誤報を信じて救国のために挙兵しましたが、途中で王の生存を知ります。すでに後戻りできない状況だったため、覚悟を決めて宮廷へ突入し、穆宗を廃位(のちに殺害)する道を選びました。この政変は、北方の契丹(遼)に「王を殺した反逆者を成敗する」という絶好の侵攻の口実(大義名分)を与えることになり、康兆自身も戦乱の中で契丹軍に敗れ、処刑されました。
【8代】顕宗(1009年〜1031年)
1009年、即位。康兆が穆宗を廃位した後、新たな王として立てられましたが、政権は不安定な状態での出発となりました。
1010年、契丹(遼)の侵攻
康兆の政変を口実に契丹が大軍で侵攻し、都・開京は一時陥落。顕宗は地方へ避難するなど、国家は危機に直面しました。
1019年、契丹を撃退
将軍・姜邯賛(カン・ガムチャン)が「亀州大捷(クジュたいしょう)」で契丹軍を大破し、長年にわたる戦争に終止符を打ちました。
体制の再建。戦乱後、国家の復興に尽力。「仏の力で国を護る」ために初雕大蔵経(膨大な仏教聖典)の制作などの仏教事業や、制度整備を進めて安定を取り戻しました。
【9代】徳宗(1031年〜1034年)
契丹との戦争後に整えられた体制を維持しつつ、北方の国境沿いに万里の長城のような防衛線(千里長城)の修築を始めるなど、北方防衛の強化に努めました。
【10代】靖宗(1034年〜1046年)
戦後の安定期を受け継ぎ、大きな改革は行わず内政の安定維持に努めた王です。徳宗が始めた千里長城を完成させて防衛を固めるとともに、仏教行事や寺院の整備を重んじることで、国家の平穏と王権の正統性を支えました。
千里長城とは?
北方の異民族(契丹や女真)の侵攻を防ぐために築かれた、総延長約400km(千里)に及ぶ巨大な防衛壁(城壁)です。長年にわたる契丹との戦争を終えた高麗が、国防の要として9代・徳宗の時代に建築を始め、10代・靖宗の時代に完成させました。中国の「万里の長城」のように、国境沿いの険しい山々や河川をつなぐように建てられており、これによって高麗は北方からの脅威をシャットアウトし、国内の長期的な安定と平和(黄金期)を築くことに成功しました。
【11代】文宗(1046年~1083年)
文宗の治世は約37年に及び、政治の安定、教育制度の整備、仏教文化の発展を実現した「太平の時代」と評価されています。高麗王朝の国力が最も充実した黄金期でした。
1055年、官僚への給与制度である田柴科(チョンシグァ)の完成
国家のために働く官僚に、給料の代わりとして田畑や薪を採る山林の収益を与える制度です。5代・景宗から始まった官僚への給与制度を改定し、高麗の土地制度を最終的に完成させました。官僚の地位や役職に応じて「農地(田)から得られる租税」と「山林(柴)から得られる燃料(薪)」を受け取る権利(収益権)をシステマチックに配分し、官僚機構の生活を完全に保障しました。土地そのものの所有権ではなく、収益を得る権利(収得権)を与えた点が特徴です。
1060年代、国立教育機関である国子監を整備。
当時、優秀な元高官が始めた「私塾(私立のエリート学校)」が大流行し、国立学校が衰退する危機にありました。そこで文宗は王権強化のため、家柄だけでなく「学問の実力」で官僚を育てるべく、最高学府である国子監の大規模な再整備を行いました。
教育課程を充実させ、身分や専門に応じて以下の6つの学科(国子監六学)を設けました。
- ・国子学(高級官僚養成)
- ・太学(中級貴族の教育)
- ・四門学(一般官僚養成)
- ・律学(法律)
- ・書学(書道・文書作成)
- ・算学(数学・会計)
文宗は特に儒学を重視し、『論語』『孟子』などの経典を徹底して学ばせました。ここで育った優秀な官僚集団が科挙を突破して国政を支えたことが、高麗の黄金期を支える背景となりました。
1076年、北方の女真族への防衛体制を整備。
1079年、仏教交流の活発化。息子の王煦(後の大覚国師義天)が宋へ渡る準備を進め、国内外で仏教文化が大いに発展しました。
【12代】順宗(1083年(約3か月))
文宗の長男として生まれ、長年皇太子の地位にありました。父の政治路線を継承する全うな期待を背負って即位しましたが、生まれつき病弱であったため、わずか3か月後に崩御してしまいます。
【13代】宣宗 (1083年~1094年)
海東通宝や銀瓶を発行して貨幣経済の発展を促しました。また、女真族の脅威に備えて尹瓘に別武班を編成させるなど、経済改革と軍制改革を進めた王として知られています。「高麗の経済改革と軍制改革を進めた実務型の王」として評価されます。
1084年~1086年、弟・義天(ギチョン)の宋への渡航と帰国
宣宗の強力なバックアップのもと、弟の義天が宋から大量の仏教文献を持ち帰り、「教蔵(続蔵経)」を編纂しました。
教蔵(続蔵経)とは?
文宗の四男で高僧として知られる義天が、「経典だけでなく、それを解釈した諸国の学僧たちの研究成果も後世に残すべきだ」と、中国・宋や遼、日本などから収集した仏教文献をもとに編纂した仏教研究書の集大成。宣宗の手厚い支援のもとで完成し、東アジアの仏教文化の最高峰と評価されています。
【14代】献宗(1094年~1095年)
宣宗の長男として、わずか10歳で即位しました。そのため実際の政治は、王太后や外戚、有力官僚による主導で行われ、宮廷内では権力争いが再燃。激しい政治混迷の中、病によりわずか1年で叔父(のちの粛宗)に王位を譲って退位しました。
【15代】粛宗(1095年~1105年)
混迷する政局を打破するために甥(献宗)から王位を譲り受け、高麗の「経済」と「軍事」を根本から変える大改革を断行したカリスマ的な実務型の王です。
1099年、鋳銭官(ちゅうせんかん)の設置と貨幣経済への移行
高麗では長らく米や布による物々交換が中心でしたが、商業の発展に伴い、粛宗は国家主導による貨幣鋳造を開始。「海東通宝」などの銅銭を発行しました。また、高額取引や国家的な蓄えとして、銀で作られた朝鮮半島の形(壺型)の通貨「銀瓶(ウンプルン)」を流通させ、貨幣経済の第一歩を築きました。
1104年、軍制改革「別武班(ピョルムバン)」の創設
11世紀後半になると、北方の女真族が勢力を拡大し、高麗北部への侵入を繰り返すようになりました。当時の高麗軍は歩兵中心であったため、機動力に優れた女真族の騎兵に苦戦していました。
そこで粛宗は将軍・尹瓘に命じて軍制改革を進め、別武班を創設しました。別武班は、騎兵部隊の「神騎軍」、歩兵部隊の「神歩軍」、僧侶によって編成された「降魔軍」などで構成され、女真族に対抗できる機動力と戦闘力を備えた軍隊でした。
この改革によって高麗軍は戦力を大幅に強化し、後の睿宗時代には尹瓘率いる別武班が女真族を討伐して東北九城を築くなど、大きな成果を挙げることになりました。
【16代】睿宗 (1105年~1122年)
尹瓘による女真征討と東北九城の築城を推進する一方、養賢庫を設置して学問を奨励し、宋から伝わった雅楽を受け入れるなど、高麗の軍事・文化両面の発展に貢献しました。
1107年〜1109年、女真征討と東北九城の築城
将軍・尹瓘に女真征討を命じ、高麗史上最大規模の北方進出を実現。北東部に「東北九城」を築きました。
1110年、東北九城の返還
補給の困難、膨大な防衛費、そして女真族からの熱烈な返還要求の外交問題により、わずか1年で九城を女真側へ返還しました。
1115年、女真族が「金」を建国。
1116年、宋から雅楽や楽器が伝わり、宮廷文化が大きく発展。
1119年、学者育成機関である「養賢庫(ヤンヒョンゴ)」を設置
最高教育機関である国子監の学生や学者を経済的に支援する奨学財団を設立。生活が苦しく勉学に専念できない優秀な人材を支え、後の高麗の学術発展の基盤となりました。
尹瓘(ユン・クァン)
高麗中期を代表する名将です。15代・粛宗の命で、機動力のある女真族の騎兵に対抗するための特殊部隊「別武班」を組織しました。16代・睿宗の時代にこの別武班を率いて北方へ出陣し、見事に女真族を駆逐して「東北九城」を築くという高麗史上最大の領土拡大を成し遂げました。しかし、国境から遠すぎるゆえの補給難や維持費の暴騰により、無念にもわずか1年での返還を余儀なくされ、彼自身も一時失脚するという悲劇の名将でもあります。
【17代】仁宗(1122年~1146年)
有力貴族(外戚)の反乱や、首都を揺るがす政変を乗り越え、王朝の方向性を定めた王です。1145年には金富軾(キム・ブシク)に『三国史記』を編纂させ、高麗を代表する歴史文化事業を実現しました。
1122年、13歳で即位。外戚である名門・仁州李氏が大きな権力を握る
1126年、李資謙(イ・ジャギョム)の乱
外祖父の李資謙が権力を独占。李資謙は娘たちを王妃にし、政治を支配しました。やがて王権を脅かすほどの権力を握りますが、1127年、失脚しました。
1135年、僧侶・妙清(ミョチョン)の乱(西京遷都運動)
僧侶・妙清らが「開京の地運は尽きた。高句麗の旧都である西京(平壌)へ遷都し、女真族の『金』を討つべきだ」と主張して反乱を起こしました。これに対し、朝廷の主流派である金富軾らは「開京中心の儒教政治と、金との安定した外交」を優先する立場から猛反発。
1136年、官僚・金富軾が妙清の乱を鎮圧。
1145年、『三国史記(さんごくしき)』の完成
乱の鎮圧後、儒学者・金富軾の主導により、新羅・高句麗・百済の歴史をまとめた朝鮮半島現存最古の歴史書が完成しました。
李資謙(イ・チャギョム)
高麗中期の権力欲にまみれた大貴族。自分の娘を16代王(睿宗)に嫁がせ、さらにその息子である17代王(仁宗)にも、自分の別の娘2人を嫁がせるという異常な婚姻政策で「王の祖父であり、王の義理の父親」という絶対的な権力を握りました。「王よりも強い外戚」となった彼は、最後は王位そのものを奪おうとクーデターを起こしますが、自身の側近(拓俊京)に裏切られて失脚しました。
妙清(ミョチョン)
高麗中期の僧侶・風水家・政治思想家。妙清は単なる僧侶ではありませんでした。当時の高麗では、仏教、陰陽五行説、風水地理説が政治にも大きな影響を与えていました。妙清はこれらの思想に精通し、「高麗はもっと自主的な国家になるべきだ」と考えていました。
当時の首都は開京(現在の開城)でしたが、妙清は「開京の地運は衰えた」「西京(平壌)こそ国家繁栄の地である」と主張しました。さらに、「高句麗の伝統を継承する」「北方へ進出する」「女真族の金に対抗する」ためにも遷都が必要だと説きました。
【18代】毅宗(1146年~1170年)
文化や芸術を愛好した一方で文臣を極端に重用し、武臣の不満を招きました。鄭仲夫らによる武臣政変で廃位され、高麗は以後約100年にわたる武臣政権時代へと突入します。
1170年、武臣政変
儒学を重視する風潮の中で「昇進の制限」「文臣からの屈辱的な軽視」に晒されていた武臣たちの不満が爆発。毅宗が豪華な宴会や宮殿建設に熱中し、政治を文臣に丸投げしたことが引き金となり、鄭仲夫・李義方・李高らがクーデターを決行しました。多くの文臣が大量粛清され、毅宗は廃位されました。
武臣政変によって「文臣中心国家」から「武臣政権時代」へ移行します。
鄭仲夫(チョン・ジュンブ)
鄭仲夫は高麗中期の武臣で、1170年の武臣政変(庚寅の乱)の中心人物です。当時の高麗では文臣が政治を独占し、武臣は軽視されていたため不満が高まっていた。鄭仲夫は李義方らとともに反乱を起こし、国王毅宗を廃位して明宗を擁立し、文臣を大量に粛清した。
この事件を契機に武臣政権が成立し、約100年にわたり軍人が実権を握る時代が続くことになる。その後、武臣内部の権力争いが激化し、鄭仲夫は政敵に敗れて1179年に処刑された。彼の乱は高麗政治を大きく転換させた重要な出来事である。
韓国の歴史(統一新羅時代) 



