【世界史】韓国の歴史(高麗後半:武断政治~滅亡)
韓国ドラマで時代劇を見る前に、時代の流れを把握したい!と思い、本やネットで調べた事をまとめました。歴史の大転換期となった武臣政変から幕を閉じるまでの、「高麗後半:武断政治~滅亡」の歴史です。
文治政治の優雅な雰囲気から一転、軍人たちが力で国を支配する下克上が始まり、さらには世界最強のモンゴル帝国(元)の大侵攻や倭寇の襲来など、文字通り激動の歴史が展開します。のちに朝鮮王朝建国へ直結する最高に熱いクライマックスの時代です!
韓国の高麗時代の遺跡
海印寺(世界遺産)
海印寺は、韓国・伽耶山に佇む韓国三大寺院の一つ。世界遺産「八萬大蔵経」を収蔵する蔵経板殿で知られ、歴史と自然、美しい紅葉を楽しめる名刹です。
address:122 Haeinsa-gil, Gaya-myeon, Hapcheon-gun, Gyeongsangnam-do, 韓国
江華山城
1232年から約40年間、高麗の臨時首都が置かれました。
address:산43-1 Gwancheong-ri, Ganghwa-eup, Ganghwa-gun, Incheon, 韓国
高麗宮址
高宗時代に王宮として利用された場所。高麗がモンゴルと長期抗戦した歴史を今に伝えています。
address:394 Ganghwa-daero, Ganghwa-eup, Ganghwa-gun, Incheon, 韓国
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歴代王でたどる高麗の歴史
高麗(こうらい、コリョ、918年〜1392年)時代は、新羅による統一が崩れた後、王建(太祖)によって再び朝鮮半島が一つにまとめられた、約470年間にわたる躍動的な中世王朝の時代です。
現代の「コリア(Korea)」という呼称の語源となったこの時代は、独自のきらびやかな文化を花開かせると同時に、絶え間ない外圧に立ち向かった激動の歴史でもありました。
【19代】明宗(1170年~1197年)
武臣政変を起こした軍人たちによって操り人形として擁立された王です。在位中は軍人同士の凄惨な暗殺・権力争いが続き、中央の混乱に乗じた民衆反乱が各地で頻発しました
1173年、廃位された前王・毅宗が、武臣(李義旼)の手によって暗殺される。
1174年、趙位寵(チョ・ウィチョン)が西京(平壌)で反乱を起こし、数年にわたる大規模な内乱へ発展。
1176年、公州の過酷な税に苦しむ賤民(下層階級)の指導者、望伊(マンイ)・亡所伊(マンソイ)が蜂起。
1193年、僧侶、金思彌(キム・サミ)・孝心(ヒョシム)による最大規模の民衆(農民)反乱が発生。
1196年、武臣の崔忠献(チェ・チュンホン)が、当時の独裁者・李義旼を暗殺して実権を掌握。
1197年、権力を完全に握った崔忠献によって明宗も廃位される。
崔忠献(チェ・チュンホン)
高麗中期の武臣で、武臣政権を最も強固に築いた人物である。1170年の武臣政変後に続く混乱の中で台頭し、政敵を排除しながら実権を掌握した。
1196年には独自の政権を確立し、王を名目上の存在とする崔氏武臣政権の基盤を築く。彼は軍事力と政治的判断力を兼ね備え、反乱勢力の鎮圧や統治体制の安定化を進めた一方で、厳しい粛清によって恐怖政治とも評される支配を行った。崔忠献の登場により高麗は武臣による個人支配の時代へ移行し、政治構造は大きく変化した。
李義旼(イ・ウィミン)
武臣政権の混乱期に頂点に立った軍人です。母が寺の奴隷(賤民)という最下層の出身ながら、圧倒的な怪力と武芸でのし上がりました。
1170年の政変後、鄭仲夫の命で前王・毅宗を素手で背骨を折って殺害するなど、冷酷な実行部隊として頭角を現します。のちに最高権力者となって独裁的な支配を進め、自らが王になる野心まで抱きますが、その強引な統治は周囲の反発を招き、最期はのちの覇者となる崔忠献(チェ・チュンホン)兄弟の奇撃にあって暗殺されました。
【20代】神宗(1197年~1204年)
王権は完全に弱体化し、実際の政治は崔氏武臣政権の初代独裁者・崔忠献(チェ・チュンホン)が完全に掌握していました。中央の激しい下克上に刺激され、地方だけでなく身分制の根本を揺るがす民衆蜂起が相次ぎました。
1198年、万積(マンジョク)の乱(蜂起計画の発覚)
崔忠献の家の私奴隷(奴婢)であった万積が、「王侯将相に生まれつきの身分などない(誰でも最高権力者になれる時代だ)」と訴え、身分解放を目指した大規模な奴隷クーデターを計画。密告により未遂に終わるも、当時の厳しい社会不安を象徴する大事件となりました。
【21代】熙宗(1204年~1211年)
武臣政権の実力者・崔忠献から王権を取り戻そうとしたが、暗殺計画が失敗して廃位されました。
1206年、北方でチンギス・ハンがモンゴル帝国を建国。
1211年、崔忠献の暗殺計画と廃位
若き熙宗は、独裁を強める崔忠献を宮廷におびき寄せて暗殺しようと画策。しかし計画は一歩手前で失敗し、怒った崔忠献によってわずか在位7年で廃位・追放されました。
【22代】康宗(1211年~1213年)
崔忠献によって強引に擁立された老齢の王。在位はわずか2年でしたが、この時期に崔忠献の長男である崔瑀(チェ・ウ)が後継者として頭角を現し、次代のモンゴル戦争を指揮する基盤が作られました。
【23代】高宗(1213年~1259年)
46年という長い治世のほとんどが、世界最強のモンゴル帝国との戦争に費やされた悲劇の時代。崔氏政権の独裁の終わりと、モンゴルとの講和という国策の大転換を見届けた王です。
1231年、モンゴル軍が高麗へ侵攻(第1次高麗侵攻)。以後、約30年間に及ぶ大戦争が勃発。
1232年、江華島(カンファド)への遷都と処仁城の奇跡
武臣政権の最高権力者・崔瑀の主導で、都を海に囲まれた江華島へ移し、長期抗戦体制を構築。同年末、奇襲してきたモンゴル軍を、僧侶・金允侯(キム・ユヌ)率いる民兵が「処仁城の戦い」で撃退し、モンゴル軍の総司令官サリクタイを射殺するという大金星を挙げました。
1236年、高麗大蔵経(八万大蔵経)の再刻事業を開始
先のモンゴル侵攻で、かつて作った大蔵経の版木がすべて焼失。これに絶望せず、再び「仏の力でモンゴルを退け、国難を乗り越えたい」と願い、約16年をかけて約8万枚の版木に仏典を刻み直す国家大事業を成し遂げました(※現在、世界遺産として現存)。
1258年、崔氏武臣政権の滅亡と講和へ
崔瑀の死後、独裁を引き継いだ子や孫の暴政により宮廷内の不満が爆発。側近たちのクーデターによって4代目独裁者・崔竩(チェ・ウィ)が殺害され、60年続いた崔氏政権が滅亡しました。これにより、朝廷はモンゴルとの講和(降伏)を決定します。
1259年、モンゴルとの講和成立。
【24代】元宗(1259年~1274年)
長年続いたモンゴルとの戦争を終結させて講和を実現し、江華島から開京(開城)へ還都。約100年続いた武臣時代を終焉させました。一方で、講和に反対した精鋭部隊による「三別抄の乱」が発生。高麗は滅亡を免れたものの、王朝の存続と引き換えに元の強い影響下に入る「元干渉期」の幕開けとなりました。
1260年、モンゴル帝国でフビライ・ハンが即位。元宗はフビライにいち早く臣従を誓い、高麗の王政維持を認めさせました。
1270年、開京への還都と武臣時代の終焉
元宗はモンゴルの力をバックに、江華島からの還都を強行。これに反対する武臣の残党を排斥したことで、1170年から続いた武臣政権が100年ぶりに幕を閉じ、王政が復古しました。
1270年〜1273年、三別抄(サンビョルチョ)の乱
朝廷の降伏方針に猛反発した最強の軍事組織「三別抄」が反乱を蜂起。江華島から珍島(チンド)、さらに済州島(チェジュド)へと拠点を移しながら「もう一つの高麗朝廷」を自称して徹底抗戦を続けました。最後は元・高麗の連合軍によって壊滅させられたものの、彼らの抵抗は高麗の対元独立意識の象徴として、後世まで語り継がれることになります。
【25代】忠烈王(1274年~1308年)
元皇帝フビライの娘と結婚し、高麗王室と元皇室の密接な婚姻関係を構築。二度にわたる日本遠征(元寇)への協力を余儀なくされるなど、高麗が本格的に元の属国体制に組み込まれた時代です。
1274年、元皇室との婚姻と、主権の制限
元皇帝フビライの娘・クトゥルク=ケルミシュ(斉国大長公主)を正妃に迎えました。これ以降、高麗の歴代王は「元皇室の婿(むこ)」となる義務を負います。また、中国皇帝並みだった「〜宗」という廟号の使用を禁じられ、元への忠誠を示す【忠】の字を頭につけた「〜王」を名乗らされるなど、王室の格付けが大きく格下げされました。
1274年・1281年、日本遠征(元寇)への大動員
元が主導した「文永の役」「弘安の役」の二度にわたる日本侵攻に強制参加。高麗は最前線基地とされ、莫大な軍船の建造、兵士の動員、食糧などの物資補給をすべて負担させられたため、国内の財政と民衆の生活は極限まで疲弊しました。
【26代】忠宣王(第1次:1298年)(第2次:1308年~1313年)
混血の王(母が元の公主)として生まれ、政治改革を試みるも元室の介入で退位と復位を繰り返した悲劇の君主。政治の表舞台を退いた後は、元の都・大都(北京)に滞在し、東アジアの学問・文化の発展に不滅の足跡を残しました。
1314年、大都に学問研究施設「万巻堂(まんがんどう)」を設立
退位後、元の都に膨大な蔵書を誇る私立図書館兼研究所「万巻堂」を設立。ここに元を代表する一流の文人・趙孟頫(ちょうもうふ)や、高麗の気鋭の学者・李斉賢(イ・ジェヒョン)らを招き、国境を越えた高度な学術サロンを形成しました。
この万巻堂での交流を通じて、当時中国で最先端だった「朱子学」が高麗の知識人層へダイレクトに流入。このとき育った学問的土壌が、のちに高麗末期に登場する「新興儒学者(新進士大夫)」たちの強力な政治思想へと繋がっていくことになります。
【27代】忠粛王(第1次:1313年~1330年 / 第2次:1332年~1339年)
元との安定した関係を維持しながら王朝の存続を図り、比較的平穏な治世を維持。父・忠宣王の学術振興政策を継承し、高麗後期の文化発展を支えました。
この事件により、新羅は事実上の壊滅状態となり、王都も大きな打撃を受けました。
1330年、息子の不祥事による復位
元の意向で一度は息子の忠恵王へ譲位したものの、忠恵王のあまりの素行の悪さに統治不能と判断され、わずか2年後に忠粛王が復位するという異例の事態となりました。
【28代】忠恵王(第1次:1330年~1332年 / 第2次:1339年~1344年)
少年時代に元の都で人質生活を送ったストレスからか、『高麗史』で「放蕩で暴虐な王」と悪名高く記録された悲劇の暴君。彼が遊興に耽って政治を放棄した結果、有力貴族たちが土地や奴婢を不法に占有して権力を独占する「権門勢族(けんもんせいぞく)」が台頭し、高麗末期の深刻な政治腐敗を招きました。
【29代】忠穆王(1344年~1348年)
わずか8歳で即位。幼少のため母后による摂政政治が行われましたが、実権は完全に権門勢族に握られていました。王権は完全に失墜し、政治的混乱が深まる時代となりました。
【30代】忠定王(1348年~1351年)
11歳で即位。前代に続き権門勢族の専横を止められず、王権は弱体化を極めました。この時期から沿岸部への「倭寇(日本の海賊)」の侵入が激増し、国内は文字通り内憂外患の泥沼に陥ります。1351年、元朝の承認を得た叔父(恭愍王)の政権によって廃位されました。
【31代】恭愍王(1351年~1374年)
沈みゆく高麗を救うため、命がけの「反元改革」を断行した孤高の改革君主。失地回復や国家の主権を取り戻す一連の政策を進め、高麗再建に尽力しました。
1356年、反元改革の開始と北方領土の回復
元が衰退し始めた(明が台頭する)好機を捉え、親元派の権門勢族を一斉に粛清。100年近く元に強奪されていた「双城総管府(そうじょうそうかんふ)」を奇襲し、見事に北方領土を奪還しました。この戦いで、現地で元に仕えていた李成桂(イ・ソンゲ)の父が寝返って高麗軍に内応し、李成桂が歴史の表舞台に登場する契機となります。
1362年、紅巾賊(こうきんぞく)の侵攻
中国から乱入した反乱軍によって一時的に首都・開京を占領されるも、崔瑩(チェ・ヨン)や李成桂らの活躍で撃退に成功。
1365年、最愛の王妃(魯国大長公主)の死去
元の皇族でありながら夫の反元改革を命がけで支えた最愛の妻が難産で死去。悲しみのあまり恭愍王は精神のバランスを崩し、これ以降、政治への情熱を失ってしまいます。
1366年、田民弁正都監を設置
失意の王が全権を託した僧侶・辛旽(シンドン)主導のもと、権門勢族に不法に奪われた土地や奴婢を民衆に返す大改革を断行。しかし既得権益層の凄まじい反発を招き、辛旽は失脚・処刑されました。
1368年、元が滅亡し、明が成立。
1374年、側近に暗殺され、田民弁正都監改革は未完に終わりました。
辛旽(シンドン)
高麗末期の僧侶・政治家で、恭愍王に重用されて政権の中心に立った人物である。出自は低く仏僧であったが、恭愍王の信任を得て権力を握り、土地制度の改革や権門勢族の抑制など大胆な政策を推進した。
特に田民弁正都監を通じて、不法に占有された土地や奴婢の整理を行い、国家財政の立て直しを図った。しかしその急進的な改革は既得権層の強い反発を招き、また専横的な政治運営も批判されるようになる。最終的には王権との関係も悪化し、失脚して処刑された。
【32代】禑王(1374年~1388年)
10歳で即位で即位しますが、恭愍王と奴婢の間の不義の子とされ、後世の正統性論争の的となります。崔瑩と李成桂という二大名将が倭寇を徹底的に撃破し、軍部の発言力が頂点に達した時代です。
1380年、黄山大捷。李成桂が倭寇を撃破
1388年、遼東遠征と威化島(ウィファド)回軍
新興の中国・明が、高麗の領土(鉄嶺衛)の割譲を要求。これに激怒した禑王と最高権臣・崔瑩は「明を討て」と遼東遠征を決定。
しかし、遠征軍の司令官に任命された李成桂は、大国・明との無謀な戦争に反対する「四不可論」を唱えます。鴨緑江の中州である威化島まで進軍した李成桂は、大雨による足止めを機に、ついに軍を反転させるクーデター「威化島回軍」を決行。首都へ攻め上って崔瑩を処刑し、禑王を廃位して実権を完全に掌握しました。
【33代】昌王(1388年~1389年)
威化島回軍を成功させた李成桂らによって、わずか9歳で擁立された禑王の息子。しかし翌年、李成桂派の新興士大夫らから「昌王は王族の血を引いていない(前王の禑王は恭愍王の子ではなく、僧侶・辛旽の子であるという『廃仮立真』の論理)」と正統性を否定され、わずか1年で廃位(のちに父とともに処刑)されました。
【34代】恭譲王(1389年~1392年)
名ばかりの絶対権力者となった李成桂に担ぎ上げられた、高麗最後の王。
1391年、科田法(かでんほう)の実施
新王朝の建国を見据えた李成桂グループ(鄭道伝ら)により、権門勢族の経済基盤だった土地をすべて没収。新たな官僚たちに収租権(税を徴収する権利)を配分する新制度を断行し、高麗の経済息の根を完全に止めました。
1392年7月、高麗王朝の滅亡
恭譲王が李成桂に王位を譲る(禅譲)形で退位。ここに王建が建国し、約474年・34代にわたって続いた高麗王朝は静かに幕を閉じ、新たな「朝鮮王朝(李氏朝鮮)」の時代が始まりました。
韓国の歴史(高麗前半:文治政治)


