ギリシャ最東部、エーゲ海に浮かぶロドス島は、ギリシャで4番目に大きな面積があります。ロードスタウンは、全長4kmもの城壁に囲まれた、直径1kmほどの町です。古代に繁栄した痕跡と中世城郭都市が残っています。

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ロードス島 古代の痕跡

古代はギリシャとエジプトを結ぶ交易地として栄えていました。

紀元305年~304年、ディアドコイ戦争の勝利を記念して、「太陽神ヘーリオス」の彫像が建てられました。リンドスのカレスによって建てられ、高さは35m、台座まで含めると50mあり、ニューヨークの自由の女神に匹敵する大きさでした。しかし、地震であっけなく崩壊し、古代7不思議の一つに数えられています。

海岸の町リンドスには、100mの丘の上に佇む神殿がありました。およそ2300年前、ギリシャ人によって建てられ、かつては42本もの柱がありました。中世になると、この神殿の跡地に聖ヨハネ騎士団の城が築かれ、騎士団はこの地も防衛の拠点としていました。

古代のロードス島は、2世紀頃に最盛期を迎え、前1世紀にローマに征服され、衰退していきました。

ロードス島 中世城郭都市

14世紀初め、イスラム勢力に追われた聖ヨハネ騎士団がキプロス島からロドス島に拠点を移し、再び繁栄しました。

騎士団通り

聖ヨハネ騎士団はフランスやイギリス、プロヴァンスなど8つの国の貴族の子息により構成されていました。ヨーロッパ各地から集まった500人の騎士達が住んだ「騎士団通り」の外壁には各国騎士団の紋章が刻まれています。騎士達は国や出身地毎に館を設け、共同生活を送っていました。

城壁も国ごとに守るエリアが決まっていました。宮殿の周りの城壁はドイツ出身の騎士達が担当でした。そして、港に面した海側の城壁はスペイン出身者達が守っていました。そもそもロードス島はヨーロッパから聖地エルサレムへ巡礼に向かうルートとして重要な島でした。

騎士団長の宮殿

騎士団長の宮殿は、聖ヨハネ騎士団の団長の邸宅と、騎士団領を行政府を兼ねることになった建物です。

騎士団長の宮殿には、イスラム勢力に備え、食糧庫や武器庫等があり万が一の時にはここに市民を避難させました。大砲も備えるけられ、防衛のために重厚な造りで、窓さえも石で作られています。アラバスターという光を通す石が、ガラス代わりになっています。

騎士達は裕福な貴族の子弟だったため、内部は豪華で部屋の数は150以上で、床はモザイクで彩りました。モザイクには、ギリシャ神話に登場するメデューサがいます。

施療院(現:ロードス考古学博物館)

施療院と呼ばれる騎士団が建造した病院がありました。病院は2階建てで、51mの長さを誇る大病室まで設置され、当時としては高度な医療技術も備えられていました。巡礼者がケガや病気になった時、騎士団が経営していた病院で治療を受けることができました。

1453年、コンスタンティノープルの陥落以後、オスマン帝国が勢力を伸ばしました。当時領土を拡大していたイスラム教の国家、現在のイスタンブールを都にしたオスマン帝国は、わずか20kmしか離れていません。ロードス島は、オスマン帝国の信仰から西ヨーロッパを守る防波堤の役割を果たす、キリスト教の最前線でした。

マリンゲート

1480年、スルタンのメフメト2世がロドスへの信仰を命じました。そして、ロードス島は熾烈な戦いの舞台となりました。大軍10万の兵をたった700人の騎士で迎え撃ちます。まず、港の入り口を鉄の鎖で繋ぎ海上を封鎖しました。マリンゲートでは上から沸騰した油を注ぐ仕掛けが待ち受けていました。

当時の新兵器は大砲でした。騎士団長のファブリツィオ・デル・カッレートは都市防衛力の強化に乗り出し、城壁を分厚く作り変えました。幅は最大で12m、幾度と攻められても破られることはありませんでした。

更に分厚い城壁の外に、更に城壁を作り足し壁を二重にしました。300kgもの大砲を撃ち込まれてもビクともしませんでした。この城壁によって三か月にわたるオスマン軍の攻撃を耐えぬきました。ロードスの城塞都市はいかなるキリスト教徒の要塞をも凌ぐ堅牢さを誇るようになりました。

1522年、オスマン軍が再び上陸しました。5か月に及ぶ戦いの末、遂にロードスタウンが陥落しました。騎士達は、200年もの間、住処だった町を追われました。

スレイマンモスク

その後、町の真ん中に建てられたのは、征服の証であるイスラムのモスクでした。

古代に繁栄しローマ帝国により衰退、中世にヨハネ騎士団が移り住み再び繁栄し、イスラムによって勢力が変化しました。エーゲ海の歴史を伝える町として世界遺産になったロードスの中世都市は、1988年、世界遺産に登録されました。

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