【世界史】中国史(秦)
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秦
戦国七雄の一つだった秦が、法家の商鞅の思想を採用し強大化しました。荘襄王の跡を継いだ政(13歳で即位)が、500年余り続いた戦国の世を終わらせて中国を統一を果たしました(前211年)。そして自ら始皇帝と名乗りました。そのころ日本は弥生時代でした。
商鞅
衛の国の貴族の子で、魏の国に仕えていましたが、才能を認められなかったため、秦に来ました。法による政治を取りいれ、たとえ貴族であっても入れ墨などの刑罰が課されるようになりました。仕えていた孝公が亡くなると反逆の罪で追われますが、自ら作った法により国外へ逃亡することが敵わず捕らえられ処刑されました。
秦の戦法
何故、強国の中から秦が中国の統一を果たしたのでしょうか。理由の一つに、騎馬兵や武器の存在があったと思われます。
中国の地形は西高東低といわれ、西側に位置していた秦の周りには遊牧騎馬民族がいました。彼らとの交流を通して騎馬の技術を取得できたといわれています。
馬の特徴として長野県で飼育されている木曽馬が古代中国の馬に限りなく近かったことが分かっています。当時、鞍や鐙などの存在はなく、足の力で方向転換していました。その上、武器を振り回すというのは、驚きの技術です。
馬の歯のエナメル質からどんなエサが与えられていたのか、科学の力で解き明かされました。馬が2歳になると調教し始めた時期から、馬の生態に合わせ雑穀など飼料を変えていたことが判明しています。書物には5m跳躍する馬であったと記されており、一万の騎兵が秦にはいました。
そして、武器には現在のボーガンのような弩が用いられていました。誰でも簡単に打て、どんな姿勢でも打てるものでした。そのため、農民出身の兵でも容易に戦場で武器を扱えたのです。完全実力主義で、農民出身であっても出世の道が開かれていたのも新興国ならではです(他国は反感を買うため導入できませんでした)。
近年発掘された金のラクダは、シルクロードの始まりが秦の時代(今までは陶器のラクダが発見された漢の時代とされていた)だった可能性が出てきました。またこの発見は、秦の位置が他国とつながる有利な場所であったことから、兵馬俑の筋肉隆々の人形が、ギリシャ彫刻の影響を受けているかも知れない可能性も出てきました。
出典:2021年6月2日放送「歴史探偵(秦の始皇帝)」より秦の始皇帝の政治
都を咸陽に置きました。荀子から政治学を学んだ李斯は始皇帝の家臣となり、法家の思想をもとに政治を行いました。
郡県制
全国を36の郡に分け、その下に県を置きました。県とは皇帝に直属する都市のことで、中央から派遣した役人に統治させました。郡とは中央が軍隊を送り、県を監督し治安の維持にあたります。
メリットは、中央の意志が地方に伝わり強力に地方を治められます。デメリットは、中央から派遣されるため、地方の土地の事情を知らずに治め、厳しい統治になりがちで、農民反乱が起きやすいことです。
道路の整備
全国に馳道と呼ばれる幹線道路を作りました。また、北の遊牧民、匈奴の襲撃に備えて、首都咸陽から内モンゴルのオルドスまで北にまっすぐ延びる直道を作り、戦争に備えました。これは戦車を走らせるための軍用高速道路としての機能を持ち、兵馬俑に見られる陣営で一気に戦争に出るための道でした。始皇帝は巡幸をして、国を見て周りました。
焚書・坑儒
法家の李斯を起用し、法治国家となった秦にとって危険視されたのは儒家でした。儒家は上に立つ以上は良い政治をしっかりとやりなさいよ!という思想のため、法の下で治めたい始皇帝にとって危険因子でした。そのため、医薬、占い、農業以外の書物を焼却したり(焚書)、儒者を生き埋めにして殺したり(坑儒)しました。
貨幣・度量衡・文字の統一
貨幣は国によって形が違っていました。燕では刀の形をした刀銭、趙では農具の形をした銭、楚では小さな耳銭などが使用されていました。他の国では通用せず商業の発展の妨げになっていました。始皇帝は円型方孔の半両銭に統一し、後の銭の基本の形となりました。
また、文字も国によって違っていたため、国が違うと読めない!ということがありました。 こうした政策のおかげで、人の行き来と商品の流れが活発になり、商業が発展していきました。
対外政策
北方の異民族の匈奴を攻撃し、秦・趙・燕でそれぞれ作られていた長城を修築して繋げました。南方では華南を征服し、南海郡を設置しました。
秦の滅亡の経緯
紀元前210年、巡行(秦の始皇帝は権威を示すために地方を巡回すること)の途中に病にかかり50歳で死去しました。この時、始皇帝の死を看取ったのは趙高ただひとりでした。
始皇帝は遺言で、後継者に長男の扶蘇を指名していましたが、丞相の李斯と宦官の趙高は、自分達に批判的な始皇帝の長男・扶蘇が皇帝になることをおそれ、遺言に背き、扶蘇を自殺させ、末子であった胡亥を第二代皇帝に擁立しました。
秦は、急激な統一政策と対外戦争、万里の長城などの大規模な土木工事により民衆に反感を買っていました。工事に900人連れて来いと命令された、陳勝・呉広が雨により、遅刻することは明確となり、どうせ罰(打ち首)を与えられるんだったらと蜂起しました。この反乱は全国に広がり、数万人の反乱軍に成長しました。
王侯将相、いずくんぞ種あらんや
王や諸侯になるのは、血統ではなく、実力や才能が重要だという意味です。このよびかけで、農民たちは立ち上がり、大きな反乱となりました。こうして始まったのが中国史上初めて起こったとされる農民の反乱、陳勝・呉広の乱です。
秦は、陳勝・呉広の乱を鎮めましたが、全国各地に起こった反乱を抑えることができませんでした。秦の内部では、政治を意のままにしたい趙高は、李斯が反乱軍と通じていると嘘の報告をして処刑しました。
全国に広がった反乱の中から、項羽と劉邦が台頭してきました。劉邦軍が咸陽の都に迫ると、劉邦と手を結ぼうと胡亥を自殺に追い込み、始皇帝の孫・子嬰を即位させました。しかし、趙高は思い通りになることを恐れた子嬰によって殺害されました。そうして、秦の皇帝に即位した子嬰は、迫っていた劉邦軍に降伏し、わずか15年で秦は滅亡しました。
項羽と劉邦
劉邦
倒秦の際、敵が強いと知れば、戦いを避けて遠回りして咸陽に向かいました。
複雑で厳しい法律をやめ、①人を殺したりした者は死刑、②人を傷つけた者は重罪、③盗みを働いた者は牢に入れる、というシンプルな「法三章」といわれる3つの法を定めました。秦の政治に苦しめられてきた人々に支持されました。
項羽
倒秦の際、敵の城を一つ一つ攻め落として咸陽へ進んでいました。劉邦に遅ればせながら咸陽へ入った項羽は、子嬰を殺し都の財宝を奪いました。そして阿房宮に火を放ちました。
鴻門の会
紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見しました。倒秦に立ち上がった楚の懐王は関中を初めに平定したものを関中の王とすると諸将に約束しました。そして項羽は、一番初めに関中を陥落させた劉邦に謀反の罪を問い、撃滅してしまおうとしました。
そこで、弁明をするために項羽の陣中へ入った劉邦に、剣舞をしながら近づいてくる輩がいました。自分を斬ろうとしている企みに気づいた劉邦は、厠を訴えて自分の陣営へ戻りました。
これが劉邦の釈明を受け入れた格好となり、劉邦を討つ大義名分を失い、この時の失敗が項羽の敗北につながった言われています。
四面楚歌
楚は項羽の故郷で、劉邦の軍から楚の歌が聞こえてきたとき、項羽は味方であった楚の人々も敵になったと絶望しました。この故事から、周りの全てが敵になることを四面楚歌といいます。
項羽の愛人・虞美人
彼女の血から咲いたという伝説からひなげしのことを虞美人草ともいいます。伝説によると、項羽が四面楚歌の状態となったとき自殺したと言われています。
楚の項羽と漢の劉邦の争いが幾度も繰り広げられ、紀元前202年、垓下の戦いで、項羽を破り、劉邦が勝利しました。