前漢

1代目:劉邦(高祖)

漢の劉邦(高祖)が中国を統一して、漢王朝を建て皇帝となり、都を咸陽を改め、長安に置きました。急速な改革で反発をまねいた秦の制度をもとに、漢は少しずつ改革を進めて国を安定させ政治制度を整えました。漢王朝の基礎づくりに力を尽くしました。

国は安定しましたが、度々異民族の侵入に悩まされ、紀元前200年、冒頓単于率いる匈奴征伐に向かうも大敗し、匈奴に貢物をすることで講和が成りました。

郡国制

中央は派遣した役人が統治し、地方は土地の事情を知っている諸侯に任せ、郡県制と封建制を併用し統治しました。それは、地方を諸侯に任せた結果、諸侯を担いで大規模な反乱が起きる危険性が孕んだものでした。

劉邦の配下

劉邦は名門出身ではなく、武勇に優れていたわけではありませんでした。しかし、多くの優秀な配下がいました。政治能力に長けた蕭何、軍師の張良、軍の指揮に優れていた韓信は「漢の三傑」と呼ばれ、劉邦を助けた名臣として知られています。

統一から7年後、53歳でこの世を去りました。劉邦の死後は、妻の呂后が実質的な権力を持ち、思い通りの政治を行いました。呂后の死後、しばらく国が乱れました。

文景の治

文帝と景帝による治世は、民衆にとって社会が安定し、歓迎された時代でした。

5代目:劉恒(文帝)

劉邦以来の政策を継承するものでした。民力の休養と農村の活性化を行いました。大規模工事は急を要するもの以外は行われませんでした。法制度では、斬首・去勢を除く肉刑の廃止を行いました。

6代目:劉啓(景帝)

全国に馳道と呼ばれる幹線道路を作りました。また、北の遊牧民、匈奴の襲撃に備えて、首都咸陽から内モンゴルのオルドスまで北にまっすぐ延びる直道を作り、戦争に備えました。これは戦車を走らせるための軍用高速道路としての機能を持ち、兵馬俑に見られる陣営で一気に戦争に出るための道でした。始皇帝は巡幸をして、国を見て周りました。

7代目:劉徹(武帝)

漢が安定しているからこそ、思い切った政治をした皇帝でした。全国から優れた人物を集め、政治や学問について意見を集め。政治に生かしました。強力な中央集権体制を確立し、漢帝国は歴代王朝のなかで最大の領土を支配しました。

衛青

武帝に仕えた将軍で、7度の匈奴征伐を行い大きな打撃を与え、北方へ追いやる事に成功しました。

張騫を大月氏へ派遣

張騫を大月氏へ派遣しました。大月氏とは、その昔、匈奴により国を追われたことがあり、一緒に挟み撃ちにしないかと持ち掛ける為に張騫は派遣されました。ところが、張騫は匈奴に捕まり10年の歳月をすごしました。その間に、妻を与えられ子も産まれました。

しかし張騫は、使命を忘れていませんでした。隙を見て脱走し、大月氏へ向かいました。こうして10年の歳月を経て、女王と面会しました。ところが、現在の土地は豊かで国家は平和であり、復讐心などなく同盟を組むことはありませんでした。そのため、説得が不可能となり、漢への帰路につきますが、またもや匈奴に囚われます。

匈奴の混乱に乗じて再び脱出し、13年の旅路の果てに漢へ帰還しました。出発の際に100人余りいた従者は1人になっていました。

大月氏と同盟はならなかったものの、西域の事情を見ることができ、国にその知識を持ち帰りました。西域諸国もまた漢に使者を送るようになり、新しい交易路が開かれ、これが後のシルクロードと呼ばれることになりました。

大宛(フェルガナ遠征)

血の汗を流すまで走るといわれる汗地馬の入手が目的でした。

征服

東は朝鮮半島の衛氏朝鮮を征服し、楽浪郡など4郡を設けました。また西は、ベトナムの南越国を征服し、日南郡など9郡を設けました。

内政

相次ぐ軍事行動により財政は悪化し、国庫は空になっていました。そこで塩・鉄・酒の専売(国からでしか買えない)を開始しました。商人に対しては、均輸法(物価の調整)や平準法(物価の抑制)を行いました。

塩と鉄の専売制度

武帝は国外遠征に力を入れたため、国の財政が苦しくなりました。そこで国の財政を立て直すため、商人が塩や鉄を売ることを禁止し、国だけが塩や鉄を売ることができるという専売制度を作りました。

人間の体になくてはならない塩と、農具を作るのに必要な鉄は、生活必需品でした。それを国の専売品とすることで塩や鉄の売り上げ全てを国の収入にしました。塩や鉄で利益を得ていた商人たちは、代わりに土地を所有するようになりました。そうして土地を奪われた農民の生活が苦しくなり、反乱の火種となりました。

郷挙里選

地方長官の推薦による官吏登用法です。これにより、勢力のある豪族が官僚となり国の政治に進出しました。

儒学の官学化

董仲舒は、儒教の教えによって国を治めようと考え、武帝に国家教学とすることを献策した人物です。礼と徳の思想により社会秩序の安定化を目指しました。五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)博士を設置しました。そして、政治的な地位を得るためには儒教的教養を身につけることが必須となりました。

文化

司馬遷が「史記」を紀伝体で書きました。

司馬遷

太史令とよばれる、暦や出来事を記録する役人をしていた父・司馬談の後を継ぎました。皇帝に進言し、逆鱗に触れた司馬遷は死刑を宣告されてしまいます。しかし、死刑の宣告を受けても、大金を治めるか宮刑(去勢)を受ければ、死刑にならないという法律がありました。そうまでしても書き終えたかった歴史書が「史記」です。

13代目:劉欣(哀帝)

武帝の死後、宮廷内での宦官・外戚の横暴や、地方での大土地を所有し農民を支配する豪族の進出により前漢は弱体化していきました。

これに対して、哀帝は、私田と奴婢の所有には限度を設け、超過した分は全て国が没収するという政策(限田法)を出しましたが、効果は上がりませんでした。

断袖

腹心の董賢と男色の関係にあったと伝えられ、「断袖」の故事で知られています。寵愛する董賢が、哀帝の袖を下に敷いて眠っていました。起こさないようにと気遣い袖を断ち切ったといいます。寵愛が深すぎることを現わした言葉です。

14代目:劉衎(平帝)

前漢の実質的な最後の皇帝です。9歳で皇帝となり。朝廷の実権は太皇太后の王政君と大司馬の王莽が握りました。14歳で死去しました。

前漢の外戚(元帝の皇后の甥)である王莽が突然、建国しました。何故か周を理想とする極端な復古政治をしました。現実性が欠如した各種政策は短期間に破綻しました。各地で農民反乱(赤眉の乱)が勃発し、戦いのなかで王莽は殺され新は、わずか15年で滅亡しました。

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