【世界史】中国史(後漢)
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後漢
1代目:劉秀(光武帝) 在位25年~57年
新滅亡後の混乱を統一し、漢王朝の再興をはかり後漢を建国しました。最初にしたことは、王莽の政治の失敗により乱れた国の制度ど立て直すことでした。税金を低くし、貧しい人々に食料を配りました。また、王莽の時代に奴隷になった者達を解放しました。32年間の皇帝の座で、政治の安定に尽くし、63歳でこの世を去りました。
対外政策
弥生時代の倭国に「漢委奴国王」の金印を授けました。これは『後漢書東夷伝』に記されています。この金印は、1784年(江戸時代)に、福岡県志賀島で発見されました。委奴国がどこにあったのか等は謎に包まれていますが、漢と日本が交流していたことが分かっています。
2代目:劉荘(明帝)在位:55年~75年
光武帝の4男が即位しました。内政面では、光武帝の施政方針を継承した政策を実施しました。
外交面では光武帝の消極策を改め、前漢の武帝以来となる西域への積極的な進出を再開しました。ここで活躍したのが、歴史家班家の次男・班超でした。
班超は30年近く西域にとどまり、西域都護(西域を統括する官名)として50あまりの国々を従えました。西域から北匈奴やクシャーナ朝を追って後漢の勢力を広げました。また軍事大使の甘英をローマに派遣し、大秦と呼ばれていたローマとの国交を開く任務を命じました。そして、パルティア王国の西の国境まで到達しました。
後漢書には、大秦国安敦マルクス=アウレリウス=アントニヌスの使者が日南郡へ到達したと記されています。こうして、北匈奴や西域諸国を平定して西域との交通路を開きました。
班三兄弟
班超の兄貴である班固が司馬遷の書いた「史記」の後の出来事を詳しくまとめようと、「漢書」を紀伝体で記しました。班固が亡くなった後、歴史書を完成させたのは、妹の班昭でした。
後漢で3代~14代の約110年間に即位した12人の皇帝は、15歳以下で、中には生後100日しかたっていない皇帝もいました。幼い皇帝をあやつり、政治を思い通りにしていたのは宦官達でした。この宦官達に対抗する勢力は党人と呼ばれ、儒教を学んだ人々が多くいました。
12代目:霊帝(劉宏)在位:168年~189年
政治を顧みず、商人の真似をし、遊興にふけり、官職を売って朝廷の収入にしようとしました。外戚と宦官の権力争いや汚職官吏の悪政によって政治は混乱し、度々起きる天災によって農村は飢餓に見舞われました。このような暮らしの中で農民達は民間宗教(太平道)に救いを求めました。
党錮の禁(166年、169年、176年)
宦官・外戚の横暴が相次ぎ、宦官が官僚(党人)を弾圧しました。党人の多くが禁固刑(官職追放・出仕禁止)に処されました。こうして、宦官の勢力が益々強くなり、政治が乱れていきました。
黄巾の乱(184年)
この時期の政治は極端な賄賂政治が行われており、官僚が出世するには、賄賂を贈ることが一番の近道でした。宦官たちが乱れた政治を行っていたころ、各地では洪水や日照りなどの災害が続き、悪い病気が流行り、人々は苦しみのどん底でした。
そんな世の中の救いを求めた太平道の信者が、張角を指導者として起こした農民反乱です。黄色い頭巾をつけていたため、黄巾の乱とよばれています。この反乱により後漢の衰退を招き、劉備の蜀、曹操の魏、孫権の呉が建った三国時代へ移る一つの契機となりました。
正規の軍隊だけでは黄巾軍の反乱を抑えられずにいた漢王朝は、一般の人々から臨時に兵を募集していました。桃園の誓いで義兄弟の契りを交わしていた関羽、張飛、劉備の3人は、黄巾賊討伐に加わりました。そうして黄巾の乱は1年で、朝廷軍によって平定されました。
太平道と五斗米道
中国の王朝では、道徳を重んじる儒学を国の学問としていました。しかし、民間では道家の思想が信仰され、広がっていました。道家思想は、人間はすべて自然のままにあるべきだという教えを説いていました。太平道は、この道家思想をもとに、色々な民間信仰を取り入れた新しい宗教でした。また、張魯が五斗米道という宗教を広め、信者になると一生、生活の面倒をみてもらうことができました。これは、のちに中国の民間信仰の中心となる、道教のもとになりました。
劉備
前漢の景帝の子孫といわれ、父が早くに死んで家は貧しく、ムシロなどを織って暮らしていました。終生の臣下となる関羽、張飛とともに黄巾軍討伐の義勇軍に加わりました。
曹操
有力な宦官の養子となっていた曹嵩の息子として現在の安徽省に生まれました。機転が利いて頭がよかったが、若い頃はまともに勉強や仕事をせず、袁紹と遊び歩いていたといわれています。人物を見抜き、評価する名人として有名だった橋玄先生を尊敬していました。
13代目:少帝(劉辯)在位:189年~189年
14歳で即位しました。黄巾の乱の司令官だった董卓の専制に反発した諸侯らによって、反董卓連合軍が起こり、連合軍に擁立されることを恐れた董卓が李儒に命じて、長安遷都前に暗殺されました。わずか在位5か月でした。有力貴族に皇帝が殺されてしまった以上、内在的に後漢の滅亡を意味していました。
14代目:献帝(劉協)在位:189年~220年
後漢最後の皇帝です。董卓により皇帝の位につけられ、母を殺害されました。董卓の暴政により長安の官僚機構が崩壊し、帝都を破壊されたとき、皇帝を保護したのは曹操でした。
董卓
無理矢理、洛陽から長安へ都を移し、金持ちを捕まえては無実の罪をきせ、財産をとりあげて、私腹を肥やしていました。また、歴代の皇帝の墓から、財宝を盗んだりもしていました。董卓の養子だった呂布に殺されました。
曹操の政策
献帝に大将軍の位を授けられました。屯田制を採用し、土地をなくして彷徨っていた農民に土地と農具を与え耕作させました。農作物の半分を国に納めさせ、半分は農民に分け与えました。そうして、経済は安定しました。
官渡の戦い(200年)
曹操と袁紹の決戦は、半年間続き、曹操軍の大勝利に終わりました。
孫権
官渡の戦いをしていたころ、呉では、19歳の青年が主君の座につきました。
赤壁の戦い(208年)
呉と劉備の連合軍と曹操の大船団が戦いました。曹操軍は、船が揺れると兵士が船酔いするので、船と船をつなぎ合わせて、揺れを少なくしようとしたといわれています。かれ草に火をつけ、あっという間に炎は燃え広がり、曹操軍は大混乱に陥りました。
曹操は病気で逝去しました。後漢は、献帝が帝位を曹操の子・曹丕に譲り滅亡しました。こうして曹丕は、魏の初代皇帝となりました。
文化
古典の注釈を行う訓詁学が発達し、代表的な人物に、儒学者の鄭玄が挙げられます。従来、書物は木簡や竹簡に書かれていましたが、宦官であった蔡倫が実用的な紙の普及に貢献しました。
【発明品】
・蔡倫(宦官)による紙の発明
・張衡(詩人、学者及び発明家)の地動儀(地震計)
・長信宮燈(燭台)